芦浦観音寺 11月23日 一般公開今度こそ

台風10号は酷い傷跡を残しました。

ただ台風直撃経験がなく少々無理もないとは思いつつ厳しい事を記させていただければ、被災地行政ご担当が「想定外」の発言をするのはおかしなことです。

気象庁他、各報道機関からどれだけの注意警報の喚起が行われていたか。準備期間も十分にありましたし。

 

結局は「台風くらいで・・・」「自分の所は大丈夫!!」の心がどこかにあったということでしょう。

そもそも治山治水は往古より「領国経営の基本」と云われていることで、堤防の決壊は河川増水にはつきものではありますが、現代でもそれへの対応準備は為政者の最重要任務です。

どこかでも記しましたように災害の推測は地形から判断できるものです。

「その時はその時」の心構えは民の部分のみのこと、官がその思考を持ったらそれを「怠慢」と呼びます。

 

つくづく思ったことは台風の東側、台風進路を右手に見る地域の被害が顕著であることをあらためて・・・。

人口の増加で河川の近くにまで人が住まうようになっていることも被害を広げているのでしょうが、そのような地域性はあらかじめ知りうることであり、行政は早めに警報を発して避難をさせなければなりませんでした。とくに通過地点が上記の如くの想定があったら早めの対応を為すことが一番。

それが「官」のお仕事というものですよ。

 

昨晩は夜間に熊本で例の余震と思われる地震がありましたが、最近はやたらと被災画像が画面に溢れています。

海外の方から見れば「安全な日本」は過去のもので「日本はリスキー」のイメージが世界の共通認識として根付きつつあるような気がします。

「二丁拳銃のおじさん」の件も凄いお茶の間露出度。

「市民に銃が溢れている?」という認識を呈しました。今のところ4年後の安心と安全をアピールできていませんね。

 

さて、昨日は相良の海終い。

私たちが子供の頃はこの日は宿題は既に諦めて、最後の夏を楽しんだものです。

 

たまたま海近くに所要があって久し振りに海岸を散策。

台風が過ぎたばかりで海は荒れ気味でしたがなんと観光客はゼロ。海の家も人影はありませんでした。

寂しげに今年の用具片づけをしている住み込みで滞在していた三保からの書生さんたち(監視・救難員)がぽちぽちと動いている姿のみ目に付きました。

地元テレビでは静波海岸の方を放映していましたが、そちらにはパラパラとお客さんの姿はありました。相良と静波の名前の差でしょう。

それでも今年は比較的天候が良かったということで昨年比で来客数はアップしているそうです。

 

ところで私のPCは小和田先生のブログがアップされると「記事が更新されました」のメールが届くことになっています。

昨日の先生のブログは「信長時代の草津湊」がタイトルでした。

先生のブログにもありましたがそれについて語れば「芦浦観音寺」が草津湊の管理者ですね。

私は以前「金森御坊」守山の善立寺(またはこちらそしてこちら)に伺ったついでに立ち寄りました(場所はここ)。

 

地図を拡大していただければ寺とは言いながらも堀の存在が確認できます。門の外観は城の如くですね①~④。

戦国期には戦闘の前線基地として機能しているようです。

 

起源は聖徳太子の太秦の広隆寺と同様、帰化人の「秦 河勝」(はた の かわかつ)建立といわれますが、その後衰微して天台寺院として再興しています。

 

お寺が大いに振るうきっかけとなったのが信長の施策です。

小和田先生のブログ記事にあるよう信長が永禄十一年(1568)に足利義昭を擁して上洛した際、副将軍指名打診を蹴って「堺・大津・草津」の直轄を所望したというところ、信長の先見性に唸らせられます。

この草津という地は水陸の要衝の地で特に海運商業交易のベースともなっています。

これをきっかけに秀吉、家康と権威者の変遷にあわせて歴代の僧侶がこの要衝の地の利権管理者として政務を執った官庁の役目をした寺でした。

 

江戸期に渡って政務を執った場所でもあったため、明治期になっての「恒例の破却」を免れなかったようですが古文書等の資料は豊富に残っていると聞きます。

 

このお寺は通常の拝観ができません。

しかし予約なしの拝観日が設けられていますのでお知らせいたします。

それが標記11月23日(水)勤労感謝の日、10時~15時です。

歴とした城郭遺構ですのでお城好きの方にも是非お勧めします。拝観協力金は300円とのこと。

私は前回の近江行脚聖衆来迎寺は突発事情により中止していますので今こちらを狙っています。

 

最後の画像は近隣の「印岐志呂(いきしろ)神社」遠景。

畑の向こうに赤い鳥居と鎮守の森と青い空、近江ならではの風景です。