女人往生 「誓願寺」 扇塚   新京極の由来とは

聚楽第址近くで一条通の北側にある愚息の寮に向かうには一方通行と極細道を回避しなくてはなりませんので、いずれからにしろ「中立売通」から進入していきます。

以前、北の方向から彼の寮に向かおうとして、ナビが「絶対通れないだろう」と思わせるような道を選択し、呆れ果てながら切り返して中立売通に回り込んだ覚えがあります。本当にあのナビはハズレでつくづく後悔しています。

そしてその通の名が「元誓願寺通」です。

 

「元」付きということは「今は無い」ということなのですが、洛中寺院中、応仁・文明の乱はじめ数々の戦乱、火災に巻き込まれ、寺院消失によって新たに新地を求めて再建された寺は数多、いちいち「かつてこちらにありました」の「元」を付けていたらキリがありません。

よってわざわざその「元」を付けた通の名が残っているという事は、より古くてより大きかったということでしょう。

 

概略は⑧画像名所図会にありますが創建は天智天皇の勅願によるということでかなり古い(667年)。当然もと京都ではなく奈良にあったのですが、鎌倉初期に京都「一条小川」(現上京区元誓願寺通小川西入る)に移転したとあります。

そして、京都寺院にありがちな秀吉による「集中」整備によって(寺町造成)現地に移されました。新京極の案内板参照画像④。

 

おそらく「一条小川」の段階でもかなりの大寺院であったことを思いますが、帰依者に清少納言、和泉式部の名がみえます。

「源信」―「一遍」―「法然」の仏縁があり帰依者の「必ず」「念仏して極楽往生」という「南無阿弥陀仏」の教えです。

これは寺の名の如く「誓願」を意味しています(現浄土宗西山深草派)。

秀吉による移転再編の際も側室の松の丸殿(京極竜子)の帰依を受けるなど当時から「女人往生」の寺としてその名は著名だったのだと思います。

世阿弥の演目に「誓願寺」(和泉式部の女人往生)がありますがまさにお念仏「南無阿弥陀仏」の荘厳を描いたものでした。

 

松の丸殿は当初聚楽第近くにあったこの寺に帰依したようで、寺町移転の際に特に京極家がスポンサーとなってバックアップを得たようです。現在は若者の屯するチャラっぽい繁華街のように感じますが、寺領はこの辺り一帯を占め数々の塔頭寺院と伽藍を配していたそうです。

 

それ故に今も「新京極」として地名が残っているのだと思いきや、それはちょっと端折りすぎかも。

明治五年(1872)に当時の京都府参事の槇村正直という人が秀吉以上の大ナタを振るって寺町を改修、誓願寺もかなりの寺地を整理させられたようですが、元々秀吉の作った寺町以前の呼び名が「東京極大路」(京の極めて東)でした。

 

今は移転してしまっていますが一遍上人ゆかりの金蓮寺という寺がこの寺町にありそのスポンサーが佐々木道誉(京極道誉)で屋敷もその北にあったとのこと。そもそもの新京極の京極の発祥は同様の「通の名」だったのです。

 

江戸時代以降、誓願寺は能楽、舞踊、落語など芸能に関わる人々の参詣を集めているとのこと。

最後の画像2枚は誓願寺HPより本尊の阿弥陀如来と松の丸殿。

場所はここです。