京都を東西に走る七条通に平行して想定。秀吉が自ら死後から復活までを考察したであろうあの「輪廻転生ライン」については何度かブログで記しました(こちらも)。
この秀吉の死して尚この世に君臨しつづけたいという頂点を極めた人ならではの極まりない強欲と、その意に反する現実というものの無常に哀れを感じますが、豊臣家が滅亡するや秀吉のその意図を阻むべく家康のとった諸方策もある意味執拗なものがありました。
昨日、一昨日と阿弥陀ケ峰の豊国廟について記しましたが、秀吉の遺言がこちらの山頂でその参道前の太閤坦に廟所である当初の豊国神社がありました。
それを廃絶したのが徳川家康で「豊国大明神」の神号も同時に排して仏式の戒名をあらためて命名させて墓を作らせました。
ちなみに秀吉の生前の希望は「八幡神」(新八幡)だったようですが、死んだあとに「それは無理」と拒否されて「豊国大明神」なる神号に豊家は甘んじていたのでした。
八幡神は男山の石清水の如く古く公家皇家の崇敬を集めまた源家の八幡のように武家からも尊重の対象であったということでしょう。
秀吉の出自が武家ではなく当然に源家長者になりえないことは明白で、彼自ら征夷大将軍(清和源氏系限定)はあきらめて(カネで買った)関白に就任するという苦肉の策を選択したくらいですので、そこのところだけは曲げることはできなかったのでしょう。
結局は豊家滅亡のあとに折角の神号も奪い取られてしまったわけです。
輪廻転生のラインの途絶など、死んだ後の事なのだから「どうでもいいこと」とは思いがちになりますが、神格化したその「何か」への崇敬とそれを大義としたカリスマの出現が平穏な社会を脅かすという将来の不安に対して家康は完全に摘み取ろうとした試みだったのでしょう。
そして神式神号をむしり取って、仏式の戒名をつけたのはいいのですが、いくら何でも墓を作ってあげなくては「惨いこと」と揶揄されかねませんので秀吉の墳墓五輪塔を方広寺大仏殿の脇に作っています。
そもそも秀吉の遺体は阿弥陀ケ峰にそのままでしたので形式的なものですが、今ある山頂の五輪塔の製作時よりもずっと古くからあって、江戸期を通じて秀吉墳墓として人々の目に触れられていたものでした。
①は大和大路七条にある「大仏前交番」脇の看板。
五輪塔は豊国神社宝物館の裏手駐車場の奥にあります。
今や人の目に触れない場所。
案内板も無かったように思います。またこの墓についての掲示板はありません。
宝物館拝観のあとお立ち寄りください。
よく見ると航空図に写っていました。奥の建物が「ホテル東山閣」黄色い丸です(場所はこちら)。
下記の画像は名所図解等(国際日本文化センター)より。
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