あの外気の湿潤なぬるさと「ど~ん」とした息苦しさはまさに那覇空港を出た時の感覚です。フェーン現象が重なったとのことでした。
毎年毎年「今年こそ」という気持ちでスケジュールとにらめっこしては、結局「今年もダメだった」と夢だけに終わって溜息を漏らしている私ですが、これなら内地に居ても雰囲気だけでも沖縄を味わえることができて、航空機代その他、得をしたような気分です。
沖縄の熱波を味わったことがない方でしたら、昨日の昼過ぎの直射日光のジリジリ感がそれに近い感覚だと思います。
しかし、やはり昼過ぎ以降は長崎への原爆投下に合わせて鐘を衝きに来られたボランティアの方以外、お参りに来られた方はまばらでした。
暑さが苦手の人にとってはさすがに無理なのでしょうね。
またお花を新しいものに替えようにも水は沸騰したようになって、ほとんどもたないですから。
私は午後からは浜松方面に向かう予定がありました。外の温度計に目をやると38℃。下の画像です。
不思議な事ですが、沖縄にいて外気温がこのような数値になったのを見たこと無いのです。
砂浜の体感温度は白砂の照り返し分もあって40℃を超えるとはいいますが、通常ではせいぜい32~3℃だったように思います。
やはり低緯度による直射日光の強さが違うのでしょうね。
驚愕の温度計の数値を確認後、高速道路利用で西へ向かいましたが掛川を過ぎたあたりに車に搭載されている外気温計の数値が40℃超えとなりました。路面からの照り返し分があってのものでしょうが、これまで見たことも無い数値に感動してSAに駆け込んでパチリです。
夜間の室内30℃が涼しく感じるというのも連日の不思議。
エアコンの操作をまちがえて25℃などにすれば冷凍庫に居るような寒さを覚えるというところ、人間の体感などというものはかなりイイ加減なことがわかります。
さて豊国廟の秀吉の五輪塔とその参道については昨日記しました。大徳寺の山門を思い出してください。
利休の雪駄履きの像の話です。
秀吉が利休を切腹させるまでに怒ったというその理由をそれで説明される方も多い様ですが、秀吉が山門を通過する際に頭を利休に踏んづけられているのと同様だというものです。
他愛もないことで、こじつけや言いがかり的にも思えます。
そのような事を考えながら、阿弥陀ケ峰の長い階段を降りながら別にこういうことも考えました。
七条通のほとんど延長線上という立地をです。
ということは京都駅からのJR東海道線も新幹線もこの阿弥陀ケ峰のトンネルを通過しているということ。
それは東京方面から東海道線で京都に向かう人の頭上には常に秀吉の遺骨があるということ。
知らぬ間に下から秀吉を拝んでいることになっているのでした。
さて、秀吉の巨大五輪塔の参道入口には「登拝」のチケット(今は100えん)を扱う管理小屋と門があります。
冒頭画像最後がその門を潜ったところです。
太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれるその平坦地に秀吉の死後に破却された豊国廟の本殿がありました。
そちらの隅っこに明治期に寺町の誓願寺から移されたといわれる五輪塔が二基あります。
それが通称「松の丸殿」=「京極竜子」、秀頼と側室の伊茶との子「国松」の墓です④。
秀頼の子ということは秀吉の孫ですね。
秀吉が生きていたとしたらどれほど可愛がったことか・・・豊臣家が存続していたとすれば庶子ではあるものの当然に「大坂」を相続していた可能性がある人でした。
彼は秀頼正室の千姫を憚って外に出されて生活していましたが、夏の陣が終結したあと、すぐに徳川方の探索にあって捕縛され、六条河原で斬首されました。
徳川方の徹底した本気モードは後に禍根を残さないという日本史の鉄則を実行したまでとはいえ、8歳の子供の罪というものを想えば哀れの他ありません。これが武門のならいなのでした。
京極竜子はその名の通り、名門近江源氏佐々木家一門です。大河ドラマ等でもお馴染みで、色っぽい役者が演じていました。
墓石前の四つ目結紋が光っていますね。
浅井久政の娘の京極マリアが母ですので浅井三姉妹とは従妹。「松の丸殿」の名は秀吉の側室になってからのものですが、その前の夫が若狭武田氏九代当主武田元明でこちらも名家。
武田元明は朝倉、織田の興亡の中、ギリギリのところで存亡の危機をかわしていましたが本能寺の際、妻である竜子の兄の京極高次とともに明智方についたのが運の尽きでした。
ちなみに京極高次の方も逃亡生活をしていましたが、同時進行で竜子が秀吉の側室にあがったことから許されたうえ従兄妹の浅井三姉妹の「初」(「淀」の妹で徳川秀忠の正室「江」の姉)を正室としたため、「竜子と初のおかげ」で出世したと後世揶揄されたことは周知のとおりです。
「初」(常高院)が国松のスポンサーとしてあって秀頼との面会を画策したり国松の遺骸を引き取って誓願寺に供養したことがこの二つの墓が並んでいる理由ですが、明治四十四年に京極家子孫による銘板が添えられていて、その思いは伝わってきます(上の画像⑤)。
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