遠州は川崎地区(旧榛原町)に散見できる大井姓は「大井川に関係あるか」との問いを受けたことがあります。
私はそもそもそのあたりのことは知りませんので「よくわからない」と応えました。
「大井」とは「こんこんと湧き出る水源でめでたい」という意味だと思います。ちなみに我が「今井」はその状況が「今あること」のめでたさですね。
昔は井戸が湧いていたが枯れたや、流れが変わってもう無い・・・ではガッカリということになりましょう。
そこは水に生命維持の根本を言い表したものであり、現代人の如く水道をひねるだけで水をジャブジャブ使える者たちにはわかり得ないところでしょう。
豊富な水源は村落防衛上の要にもなりますし、水稲栽培には不可欠、また大量輸送の水運も可能となります。
ただし水への畏怖は常に存在し、気まぐれに大荒れしては堰を切って財産を水泡に帰させ時に命も奪ったりもしました。
京都桂川の流域でその名を「大堰川」(おおいがわ)とか「大井川」と呼ばれていました。この「堰と井」の違いは「音」主導の聞き伝えの誤差でしょう。「水を囲う」という意味からすると同意でしょう。
「大河」の場合、特に大暴れする川は「畏怖」の念を込めて「畏」をイメージして自然へのかしこまった敬意で「大畏川」との気持ちも含まれるとしたら言いすぎでしょうか。
ということで「大井姓」は大河を連想するものでなく、水脈が大きければたくさんの人たちを養えるという「めでたさ」のみを強調したもので、「水脈の大きい」ある場所に住したのがご先祖さんと考えたいところです。
さて「紫野十二坊町」の上品蓮台寺について春の桜のシーズンに記しました。
平安京当初では最大級の寺だったことが考えられます。
平安遷都に伴って旧来の御所を中心に南北に走った「千本通」という主たる通の左右に12もの伽藍塔頭が存在したといいますのでかつての葬送の道に相応しく、その代表的な寺院だったはずです。
現在の御所の位置が頭の中にあると、少々ちんぷんかんぷんになりそうです。現在よりだいぶ西に寄ります。
やはり千本通の始点が淀城あたりとこちらもどこかで記した覚えがありますが、合点がいくところがありますがそれは桂川と並行して走っているのです。
直線的な御所繋がりですね。長岡京から平安京への移転をスムースに行ったということが分かります。
たった10年で長岡京より再遷都となり以後1000年の都となった平安京は水害もあったでしょうが、やはり長岡京の10年はあまりにも短く、水害が酷かったことが決定的要因になったことがうかがわれます。
上品蓮台寺はその蓮の名の如く花の季節の色どりとして記しましたが実はこの「蓮台」を「極楽寺浄土の蓮の台」と早とちりして本尊が「阿弥陀様」では・・・と思いがちになりますが、こちらの御本尊は地蔵菩薩でした。
この平安京の旧主道にあり葬送の道の大伽藍の寺であったからこそ、先に記した定朝の墓があるのでしょう。
カタチが傘塔婆形式ですので後世に再建されたものでしょうか。詳細不明です。
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