京都を南北に走る「高倉通」は何度か記していると思いましたが(京都文化博物館)京都駅近くの七条通との交差点あたりには平安末期から仏像の製造工場があった場所です。
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来に代表される仏師「定朝」が率いた工房「仏所」(ぶっしょ)で、当初から百名以上の職人を抱えていたといいます(場所はここ)。
「定朝様」と呼ばれる仏像彫刻様式は渡来系のそれとは一線を画す和風オリジナルのものでこれはふくよかな円い顔立ちとなって以降貴族権威者たちの趣向はこぞってその仏像様式に向かい一大ブームとなりました。
仏師というとノミを持った職人を思いますが定朝への公的な敬意は絶大で、彼個人に僧としての位階-「法橋」を授けられるほどでした。
以降、勢力の有る大寺院はこの定朝が開いた工房に仏像製作を依頼するのが建前となり、定朝血縁の流れは七条大宮に移って衰退しますが鎌倉期の運慶・快慶(慶派)への流れとなっています。
工房に居た仏師が独立し、定朝様を取り入れた仏像を要求のままに製作したため、世には「定朝作」の伝来を持つ仏像が散見されています。
さて快慶もその「法橋」位を授かった仏師でしたが彼の場合は特に阿弥陀信仰に傾倒していたのか阿弥陀如来像を多数作っています。それゆえ、彼が作った阿弥陀仏を「安阿弥様」と称しまたその作風を「安阿弥風」とも呼んでいました。
弟子たちも作風を模倣しますし、贋作も登場するのは当然の流れですが、拙寺の通称「海の如来さま」(元禄時代に檀家漁師が網に掛かったと拙寺に持ち込んだとの伝承)の台座には
「御作者 法然上人之御特弟安阿波之御作也」とあるようです。尚「安」の横に「南」と記されているとのこと。私は現認していませんがこれは壊しそうで触ったことがないためです。「波」ではなくて「弥」で「南阿弥」だったら「快慶」となりますが、気持ち怪しいとは思います。
祖父は当時の文部省に紹介された組織に持ち込んで「慶派」はまちがいないところのようなことを言われて喜んだと言っていました。お顔は満月の如くまん円で金ピカに施されてています。
この金ピカは平成元年、父の代に京都に運んで再処理したといいます。まったくもって台無しにしてしまいましたが私が寺に居れば絶対にやらせなかったことです。
「モノの良さ」よりも阿弥陀様としての荘厳(化粧)を優先したのでしょう。
本堂中央の御本尊の阿弥陀如来とは違います。
在宅している時に限定されますがひと声掛けてくだされば、目前にてお見せできると思います。ご本尊よりもこちらの阿弥陀さんの方が牧之原市の指定文化財になっています。
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