昨日の法事のあとのお斉では地元相良では誰もが知っている「花饅頭」を古くから作っていたという店の主人が同席していました。そのお店は既に廃業されています。
子供の頃は父や祖父たちが花饅頭を夜遅くまでかけて作り朝早くリアカーに積み込み、自転車で引かれたそれを追いかけて坂道に差し掛かった時父親を助けることが仕事だったことを思い出すそうです。
特に御前崎方面の縁日の棚店の売れ行きが良く、その時は殆ど動員されたということです。何しろ遠渡坂(おんどざか)をリアカー+自転車は「あいで行って押すのもキツかった」そう。
この「あいで」は当地の方言でしょう、今では年配の方しか使用しませんが「あるいて」でよく耳にします。
その後昭和20年代後半に「ミゼット」(小型三輪)が発売されて数軒の商店が乗り合いで動くようになりそのリアカーはお役御免、その後は畑への肥溜め運びに使用したとのこと。
御祖父さんは酒が好きで、饅頭を売りに行った近くの酒屋に入り浸ってはべろべろになっていたとのこと。それを見ていた父親は「酒」は控え気味にしていたそうです。
昔の酒屋は量り売りで、飲む分を買い求めるというのが通常のようですが、アル中状態になると酒屋の店頭に居ついて飲みまくり身上と体を潰した例は枚挙に暇がなかったようです。
昔の話を聞くと楽しくて根掘り葉掘り聞いてしまいますね。
さて、8/16の特別拝観について記した源信さんの聖衆来迎寺、先日もチラッと画像を記しましたがあの門は坂本城から移築されたものというのが定説です。鉋の削りの推定から時代的にも合致しているとのこと。
本来あったであろう坂本城の櫓からの解体部材での改修品であるといわれています。空いただけのほぞ穴と切断個所の存在がその(流用品あるいはコンパクト化)理由のようです。
門には少々読みにくいですが明智光秀との関わりを示唆する表札がかけられています④。
⑤は境内から外側を見た図です。⑥⑦の戸の飾り金具もいぶし銀の味を出しています。いずれにせよ貴重な遺物ですね。
また、開山堂の左側の墓域には森可成の五輪塔があります。
宇佐山城城主でこの地付近で浅井朝倉軍の京都入りを阻止せんがために少数で戦闘を挑んで憤死しました。その遺体を当時の住職が境内に埋葬したといいます。
やはり岐阜県可児市可成寺の墓の方は供養塔あるいは遺品ということになります(上記森可成のブログ内にリンクあります)。
墓は後世になってから新調されたのだと思いますが一応は掘り返しての学術調査というものがどうなっているか興味あるところです。
この寺の門前に繋がる白壁下の石垣を注意深く見て歩けば、仏さんやそれを思わせる何かの彫り物があることがわかります。
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