横浜方面での土砂降りの情報を「奥の墓道氏」からのLINEで得て相良の「度P感」の状況(一番最後の画像)をドヤ顔で送信すればさすがに驚いていました。
天気は西から東に流れるという考えはごく普通であってあの豪雨を見て、関東の西にある東海地区が無事でいられることは信じられなかったでしょう。
ところが当地は早朝よりクマゼミの大合唱に始まり、梅雨明けを思わすほどの日差しで境内のハイビスカスの鉢など水分枯渇状態。朝夕タップリの水やりが必要な時節となりました。
午後2時からの法事は横浜からの参拝でしたが、聞けば御殿場辺りまでは酷い豪雨で焼津くらいまでは降っていたとのこと。
私は持論の「相良のある牧之原台地はちょっとだけ太平洋に出張っている その`ちょっとだけ`が違うんです」と説明しました。
さて、標記浜松市の「入野」の中学校のグラウンドの伝承について、「入野氏なのか熊谷氏なのか」と記しましたがこの近くには「御所伝説」があります。
伝説と言いきったら語弊があるのかも知れませんね。
なかなか話の内容は真実味があります。
「御所」といえば「皇宮」ですね。
そのやんごとなき人が京都から下向し開山したといわれる寺が入野の龍雲寺。山号は「西湖山」で明らかに佐鳴湖の西を意識したかのような号です。
ただし位置的には「西」というより「南」という感じ(場所はここ)ですのでこの「西」は本尊の阿弥陀如来坐像の「西方浄土」をもかけているような気がします。
さてこの「御所」の主とは「木寺宮康仁親王」~きでらのみや やすひとしんのう~です。皇太子(康仁親王)として次期天皇として約束される地位にまでありましたが、両統迭立―持明院統・大覚寺統の双方主張混乱の中、さらに後醍醐天皇の興亡に振り回され挙句に廃嫡されて、皇位継承がならなかった人です。
よって「木寺宮」と言われる宮家の名で呼ばれています。木寺とは京都葛野郡(かどののこおり)にあった地名で現在の仁和寺近くといいます。
その人がどういう経緯で遠州は入野に入ったかはわかりませんが、「浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ」にはこう記されています。
【入野】浜松荘の入野(当市入野町)に木寺宮(きでらのみや)の御領があった。木寺宮は、後二条天皇(1285~1308)の皇子邦良親王にはじまる。祖父後字多法皇から尊治親王(後醍醐天皇)のあと、御領などをうけつぐ指定をうけている。浜松荘入野のうちを与えられたのであろう。その子康仁親王は、北条氏におされて、光厳天皇の皇太子になったので、後醍醐天皇によって廃された。【竜雲寺】入野は地頭方・本所方・国方とわかれ、竜雲寺を木寺方とか木寺宮といった(『竜雲寺文書』)。
その後の宮家についての記述が
【入野】天正八年(1580)五月、徳川家康は市内入野町の竜雲寺に住む「大宮」に対し、入野の本所領と竜雲寺領は、住持瑞椿に譲るのならこれを保証し、「大宮」の存生中はお考えのとおりにすると述べている(画像最後から2番目)。
大宮は赤津中務少輔で、木寺宮の八世だといい、瑞椿はその子である。中務少輔は天正八年三月まで、武田勝頼の軍役をつとめており(以上『竜雲寺文書』)これが問題となったのであろう。十月に中務少輔は逃走した。
【竜雲寺と木寺宮】入野の竜雲寺が木寺宮に関係があるというのは、浜松藩士永井随庵が主命で延宝八年(1680)に浜名湖周辺を巡歴したときの手記『随庵見聞録』(『浜松市史史料編二』所収)に古老の説として誌したのがはじめであり、内山真竜の『遠江国風土記伝』(1798)にも引用している。
その確証はあげていない。また竜雲寺内に「木寺宮康仁親王墓」が伝存している。しかし同親王は京都地方で薨逝されたことが確実である(『園太暦』文和四・四・廿九)。
ただ天正八年五月廿八日付徳川家康判物によると、「大宮様」とあり、「御局」にあてているなど丁重な取り扱いである。
また天正八年三月十八日付武田家朱印状は「赤津中務少輔」にあて、『遠江国風土記伝』では木寺宮八世としている(康仁親王は中務卿)。後二条天皇(1285~1308)の皇子邦良親王(木寺宮の初祖)の旁系の人と考えれば、矛盾はないであろう。当市や周辺には南朝にゆかりの地が多いから、大覚寺統の木寺宮の旁系が滞在していたことはありえよう。
と記しています。
木寺宮家消滅は武田勝頼派にあったことが遠因だったというのも興味深い説得力となっています。
画像①を登った中腹にお目当ての木寺宮康仁親王の五輪塔があります。地輪のレリーフといいスタイルといい親王の墓とすれば室町初期という歴史といい、感動しながら回り込んで何カットか撮らせていただきました。
この丘を上りきると佐鳴湖が一望できます⑤。④は入野中学校。
⑥⑦は南側。⑥の左端にイオン入野店が見えます。⑦は龍雲寺本堂。佐鳴観音なるものも鎮座。
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