私の感ずる体感温度と不快指数の最高値を日々更新していますがやはり昨日の「度P感」はそれぞれの今年1番でした。
それでも外でお会いした檀家さんによれば感覚としてはその前日の方がキツかったとのこと。
無風状態で「クラクラきた」と仰っていましたが私としてもその「クラクラ」を聞き流すワケにはいきませんので「水分補給」の重要性について念を押しました。
「体感」にも個体差もありますがその時の環境、場所によって大いに変わってきます。
自身の健康管理はくれぐれもまずご自身でケアください。
とりあえず「水分」の継続的な摂取は不可欠です。
さて、昨日の入野中学からの浜松市街の画像を撮影した場所の脇には「熊谷の井戸」と呼ばれる遺構があります。
学校へあがるスロープを登りそれを左手にカーブした辺り、茂みの中にあります①②③。
掲示板によれば昭和27年に中学校の建設の際にこちらに移されたとありますが、元あった場所は学校プールの東側とのことでそう離れた場所ではありません(昨日の航空図 中学校プール参照)。
掲示板解説によれば①熊谷次郎直実の子孫が室町期に定住したという説と②宇利城主の熊谷氏末裔説の二つです。
どちらにせよ熊谷某の屋敷がこの中学校のある高台にあったというものです。
特に②説がまことしやかに語られていて、松平清康に攻められた今川配下三河宇利城の熊谷備中守実長の孫にあたる次郎直次がこの地に土着したといいます。
中学校のグラウンドの外側⑤、道路を隔てた小さな公園に「熊谷塚」と彫られた自然石や地蔵が並べられた場所がありますが(昨日の航空図☆印)、もともとはどうやら中学校のそのプールの東側あたりにあったものが移されたようです。
中学校造成時にはただの藪だったようですが、今は住宅地。
④の臨江山公民館の斜向かい、屋台置場隣の公園がそうですが、
こちらの高台が「臨江山」と呼ばれていることがわかります。
「入野」の「入」は「入江」のそれであると確信したところです。
昭和27年では熊谷屋敷跡としての調査はロクにされていないことでしょうし、いずれかの時期に再調査は必要ですね。
元は茶畑で校舎建設によって破壊されている可能性はありますが、少なくともグラウンドの深部は手つかずでしょう。
立地から土豪領主の屋敷があったとしても不思議な場所ではありません。
「熊谷」といえば鎌倉御家人、「直実」。
「敦盛最期」に法然の弟子そして埼玉県熊谷市を思い起こしますが、ここ浜松市入野も「熊谷」に縁がある地でもありました。
ただの伝承と捨てておくレベルではありません。
公園には看板が新設されていて伝承の掘り起こしと告知作業は着手されているようです。
ではこの地を治めたのは「入野氏」なのか「熊谷氏」なのかと、その時代的変遷歴史についてはまったくわかりません。
家康による侵攻を受けた地でありその反対勢力であれば歴史から抹消されている可能性はあります。
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