先日の史跡研で大河ドラマに「田沼相良は無い」と憎まれ口をたたいた後に私の持論を少々お話しさせていただきました。
といっても「やっちまえ的」な戯言の類です。そもそも雑談会ですから。
その内容は、相良じゅうの文化財、遺跡に規格を一にした石標と案内板を建ててマップをつくるなど外から来る人への紹介も必要だろうというところからエスカレートして、(田沼より)戦国時代の方がウケがイイということで、相良保育園と陣台山の間辺りに高坂弾正、相良小学校あたりに武田勝頼の銅像でもブチあげたら面白い、「銅像作るのにいくらくらいかかるの?」から、「なんだか静岡市長は結構バカそう・・・気づきが無い」と展開し静岡駅前に「家康の銅像はあるが今川義元の銅像が無いのは不思議。
そもそも小田原の早雲銅像なんて根拠レスなので伊勢宗瑞として静岡でぶんどっちまえ・・・」「信玄の治下時代もあるのでその銅像もよし・・・太田道灌も来てますね、みんな並べちまぇ」と殆ど酔っぱらいのくだまき状態。
まぁ戦国ファンの意表を衝いて勢ぞろいさせれば注目を浴びることは必至。銅像の存在は歴史を知ってもらううえで効果大だと思います。
静岡駅の南口には「何故そこに」と理解不能の銅像が2体もあります(ルノワールのブロンズ)。
まぁ静岡県人のどれくらいの人達がその芸術作品をご存知なのか甚だ不明なるも大層なおカネが出ているそうですね。
お城を作る話もあって何とも羨ましい。
私が西洋美術に興味がないというかその軽薄を記しているようでみっともない話でした。
その史跡研は大御所のN先生がいらっしゃいますが、この方は一言で形容するに「強烈なる郷土愛」の人。
私の「駿河に今川の・・・」に反応したのか、これも先生の持論でこれまでも幾度かうかがっていますが「今川なんてそもそも三河の田舎地頭の出」(一族の足利尊氏がうまいことやって当たっただけ)「塩買坂の今川義忠の死について<戦勝の帰り>は捏造、横地城での負け戦」と今川のことになるとまさに「ボロクソ」状態。
これは横地・勝間田一族を滅ぼしたといわれる今川義忠への憎しみがつい滲み出ているような様子。
歴史への感情移入がそこまで入るとは・・・と感心して同調するばかりです。
さて、「城之崎」というその地形をも推測できる「城」の入った磐田の地名については城跡と福王寺の記述の際記しました。
その福王寺には駿河今川初代といわれる今川範国の墓があります。
今川といえば駿府のお屋形とか駿河守護をイメージしますが、遠州守護でもありました。たまたま駿河国について固定的であったことがそうなるのでしょう。
この今川範国は建武三年(1336)という室町期ごく初期に遠江守護そして駿河守護に任じられていますので、のちに駿河一国のみとなった際などはその「遠江国回復」はいつの時代も悲願だったわけです。今川義忠は応仁期に京都での戦闘ではなく斯波氏の手になっていた遠江を奪い返し、斯波家の政権内での力を削ぐことが目標だったといわれています。
義忠は今川家6代目でそれが裏目に出たのですが、その子の氏親~義元にかけて駿遠の雄として地盤を固めていきます。
塩買坂は相良と菊川の境界にあって地番としては菊川。
相良だったとしたら「義忠の銅像」建てろと言うでしょうから周囲はドン引きになるでしょう。相良でなくてよかった。
範国の墓は一瞬は一石五輪塔のように見えますが、崩壊しているのか何なのかオカシな形になっています。
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