昨日の私なりの考えによってお応えした御開祖の思いについてですが、さらに重ねての「お達し」をいただきました。
本当にありがたく思い、このブログの冒頭にてお応えできればと記させていただきます。
「如来さんのお達し?」と思える投げかけられる「テーマ」(それは雑用!!といわれることも・・・)に右往左往して日々過ごさせていただいています。
そこに1日の終わりというか始まりに(大抵日をまたぐ)「殴り書き」風他愛もないブログを認(したた)めることを習慣としていますが、何よりそちらへの「お達し」は有り難くまた感謝いたします。
T氏より連日「すくい」をテーマに投げかけをいただいています。
かなり人を喰った如くの不真面目さ漂う拙ブログへの評価と一緒にご当人からの切実な心境の吐露をお伝えいただきました。
T氏は退職後「そろそろ終活」との声も聞こえるくらいの御歳だとのことがわかりました。
ぽつりぽつりと周囲の者は先だって色々と考えることが多くなったこともその不安を掻き立てる要因になっているご様子です。
それら一見して蓮如さんの「白骨の御文5-16」
~ヲクレサキタツ人ハ モトノシツク スヱノ露ヨリモシゲシ~の部分の前後が思い浮かんできます。
蓮如さんがしきりに「後生の一大事」(特に上記「白骨」)を強調したのは単純に死んだ後の世界を述べんがためではないということを昨日記しました。
ハッキリ言って蓮如さんでも御開さん(親鸞聖人)でも「念仏申して仏となる」と私たちにはほとんどその「造作」(心より称名して合掌)の勧めと、結果としてそれによる往生の感得に特化した教義のイメージを与えていますがそのことは、私には「急ぐな」という意をも暗示しているように感じています。
昨日も記しましたが当流親鸞さんの念仏は「非行非善」でした。「非行」を考えるにその反意は「心」ですね。
そこのところは『御伝鈔』(覚如)に記された「信行両座」、信か行かのエピソードに触れていただければ「なるほど」と思われるかと思います。
そうですね。行としての念仏ではなく「信心」・・・いわゆる「心」からの阿弥陀仏への「信頼」が不可欠であると解します。それを単純に「帰依」とか「拠り所にする」とも言いました。
しかし「心」であるとはわかっていても「私の心」ほど暗く混沌としているものは無いということを知っているのも私です。
思う事は雑念ばかり、もっと深く言えば煩悩の塊のようなものです。
そもそも心が晴れず救いとは縁遠い「私の念仏」も、その「行」として回数をこなすことに優位性を見つけ伴う達成感を得るための自己満足でしかなかったことに気づくことができます。
そしてそもそも「すくわれた」(成就 往生 不退位 悟り)は自己申告のようなもので他者にとってそれを量る目盛りは見た目だけです。また、それを他者に告げ「お前より上位」だと吹聴
することの無意味もあります。すべてが「私の心」次第であることが念仏の本当の姿だとわかります。
その「私の心」については一番私が知っているのですが、一朝一夕に、雑念を排した「至誠心」を備えた念仏には至りません。
その「心」に到達するべく、それは日々の念仏によって近づければいいのだというのが我ら凡夫のスタンスでしょう。それを自分のはからいから離れた「他力」といい「非行非善」の「非善」だと思います。
T氏のお便り(不掲載)を拝見するに、回答を早く求めようとする姿を感じます。
昔から「仏法のことは早く早く」とは言いますし、Tさんの現況や年齢から察してそれはやむを得ないことと思います。
しかし親鸞さんの教えは仏教ベースの法ではありますが、哲学や心理学的方向に向かう深みが存在します。
その点は昨日も触れましたが人間成就のための自身の心の開発とそれによる「すくい」の存在は疑う事が無いにしろ焦ることはありません。
頭の中を一つ一つクリアにしていく作業が伴うはずですね。
よってこれが「すくい」かも知れないという昨日の私の提案を聞いていただいてとても有り難いのですが、それはあくまでも私の提案であってTさんのそれとは微妙に異なる場合もあります。
「すくい」とはTさんが私の記した内容から派生した簡単な言葉として「仲間たち」と表現されて「それらの中での各立ち位置にある自分の存在を喜ぶこと、それらの中での自利利他の考え方でいいかどうか」の判断を問われました。
それは一つの「すくい」になることは確かでしょう。
真宗には「同朋」という理念もありますね。
ただし私の発想はそういった「朋」も含まれていますが、それ以上、もっと広大で自然の中、命のバトンタッチのような感覚も含まれています。
ともかくも「すくい」はどこにでも転がっているのですが、それに気づかずに生活しているというのが私たちであるのです。
ある意味その「すくい」らしきものでもひょっとして「それでは・・」と思いつつ、動かされてて「ああ・・・」と気づかされることも「すくい」だったりします。
自分がそう計算して(自力)動けば「行」になってしまいますから親鸞さんの言う「非行非善」の念仏ではなくなってしまいます。
またTさんは「実行できず理屈を頭の中でこねくり回す」といわゆるご自身の煩悩について触れていました。
それは「悪業煩悩を抱えたままの姿」への一つの「気づき」であってそちらも「非善」の念仏のすくいがありますね。
また、人はしばしば「過去にすがっていたずらに未来を杞憂し現在の不遇を生きる」という状況に陥りがちになります。
これは過去の栄達に関してはともかくも、未来に特別に不安を抱えている心理状態でもあります。
恐縮です。「終活」と言う語も今の流行りことばで、私から見るとむしろその語が当人の口から吐かれること自体またその社会がすでに「すくわれている」とイメージするところでもありますね。
そのような配慮というか心配を実際に活動として動く以前に「仕舞う命」、「不慮」を幾度も見せつけられていますので。
仏教でいう「四苦八苦」(生老病死+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の計8つ)の一番の「苦」は何といっても「私の将来」に必ず控えている「死」であることは誰もが認めるところ。
仏教の教えはそれらの「苦を思う」誰もが背負うbaggage(お荷物)と考えればわかりやすいと思います。
人として生まれたからには必ず「おつきあい」していかなくてはならないそれらお荷物なのだからその「未来」については特別に心を配すことはない(心配しない)よう心がけることが肝要ということです。担ぎ上げれば重たいだけということです。
そこのところも「みんな同じ」なのですから。自分だけ重荷を背負って歩く事はナンセンスです。
家康もその「重荷を背負って歩く人生」について語っています。もともと重いのですからできるだけ軽くして歩きたいものです。それもゆっくり、急がずですね。
今風の心理学でいえばそこのところ「苦」を「苦痛」に捉えてはダメといいます。「苦」は「苦」として付き合う、できるだけ痛みの方は無視する、想い病まない、未来のことはそれこそ「おまかせ」することが肝要といいます。
今一度記しますが阿弥陀さんの名「無量寿仏」を。
その働きは「思いはかるな まかせろ」でした。
画像は教育委員会のH氏コレクションから。
相良の萩間川(旧相良川)から見た「相良湊」の図。時代不詳ですが、係留された船舶の大きさたるや驚愕です。
直立したマストも興味深いのですが、これだけの大型船が写真技術があるほどの時代にあの辺り(現湊橋付近)まで入り込んでいたことも驚きです。喫水を考慮すればかなりの深さが考えられますので。
昔から相良湊は安政大地震による隆起で荒廃したといわれていましたのでこの画像を見た時は唖然呆然でした。
まさか今流行りの合成ではないですよね。
遠く西方の小堤山の麓に拙寺の屋根が見えます。昔から「相良で一番高い建物」と言われていますが、「なるほど」ですね。現在の図ではさして目立ったものではありません。
おそらく⑦は小島蕉園のお墓③があるお不動さん⑤⑥からの図でしょうが、現在はそちらは竹藪と高木でまったく西側を拝することはできません。
よってこの角度からの図はあきらめて平田寺の墓地からの図となります(最後の画像)。
今の萩間川に船が入ることなどありえませんね。しかしこちらが昔から言われる「相良湊」です(①向きは上流)。
この湊橋の相良側を「市場」(いちんば)と呼び特に田沼時代には廻船問屋が並んでいました。
当家の檀家さんのご先祖でいえば野村・小田・羽田あたりでしょうか。
「布施商店発行」と記されている絵葉書ですが、当時の布施家は現在の書店ではなく石油商か呉服商です。
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小山昭治 (水曜日, 29 6月 2016 09:29)
連続でお寺らしいコメント。いいですね。
私も同意見です。
但し、現実はそのような思いで日々を過ごすことはできません。
目の前の悩み、行き詰まりなど問題が山積みです。
時々気がついて「生かされるままに生きる。きっと助けてくれる。」
それでもだめなら、とことん落ちれば地に足が着く。どうにかなるさ。
してくれる。
甘い考えが主ですね。
助けてくれる・・・私なりの「本願ぼこり」ですね。
今を精一杯甘えながら生きる。
今井一光 (水曜日, 29 6月 2016 17:10)
ありがとうございます。
「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界」ですからね。
しかしまぁ、「何とかなる」でしょう。
如来様の「OK OK」の印に見えます。