拙寺境内の墓地からどちらの墓地へ行ったとしても新旧墓石に記された家紋に足利系を推察される「丸に二つ引き両」はどこでもお目にかかるオーソドックスな家紋です。
よく新家分家筋の家から墓石を新調するにあたって「家紋をどうしようか・・・」などという相談を受けます。
私は「本家と同じ方が後世混乱が無いのでは・・・」とはおすすめしますが基本は「好きにして」のスタンスです。
元を辿れば同じご先祖様を持って姓も同じにもかかわらず、家紋が違うという例があります。どこかで「自分はこうする」という意思がある人が出れば当然に変えるでしょう。
よってその根拠など殆ど好き好きですね。
特にその家紋の根拠の殆どは明治八年の「平民苗字必称義務令」以降「庄屋や本家に真似て」名乗ったのと同時期に決めたのでしょうから「そもそも適当」なものだったのです。
どうでもよろしいと心得ていて、ではどれにしようかと迷っているところに婚姻等でその家に入ってきた家の家紋を継承することもあったでしょう。
しかし愛着などもわいてくるでしょうし代々それでなくてはならないと、厳しくそれを伝承してきた家にあってはその変更に関して一同顔をしかめられるかも知れませんね。
私の家の家紋は?といえば初代釋浄了が本願寺から持ってきた寺の紋の「五七桐」と考えて併用すればイイと思っていますし
そもそも家紋を主張する場面は殆ど皆無に近いのでどうでもイイ部類に入っています。
当家は寺の「五七桐」とは変えて、3代目として入婿した釋祐傳の祖を意識して「下り藤」にしようとも言われていました。
以前私が世話になった東急ハンズで型染教室を開催した際のそのタイトルが「家紋の暖簾をつくろう」でした。サンプル用に一つ先生に頼んで作っていただいたのが(素材は自腹です)「下り藤」だったことを思い出します。
ちなみに家紋ではなく旗差しものですが私が好みのデザインは福島正則の「黒字に山道」ですのでそれアレンジして「勝色に山道」、それも山道のジグザグ部分を太く白抜きにしたものをイメージしています。
そうですね、独りよがりともいいますが、要はデザインの創作ですから他と同じでなくオリジナルでかまわないと思っています。他家と同じにする理由はないのです。
さて、昨日は相良藩田沼の大河ドラマ採用の低確率について記しましたが本日も相良藩の殿さまの件から。
田沼意次の息子で若年寄の意知が江戸城内で佐野政言に斬り殺されたことが田沼家凋落と相良城そして城下町の転落の始まりであったことは周知です。
そして田沼意次が入る前と言えば三河挙母藩からの本多忠央、そしてその前が板倉勝清という殿さまがいました。
この板倉勝清もやはり江戸城中で斬り殺さられかけますが、この人の場合は危ういところで命拾いしています。
通説では下手人の板倉勝該(いたくら かつかね)の勘違いといわれています。怨恨説が専らの解釈ですが情緒不安定はだいたい江戸城で刀を振り回すことからわかりますね。
板倉勝清の命拾いとは勝該が人違いをしたということです。
おそらく城中廊下は薄暗かったのでしょうが間違って斬り殺された人がいました。
よりによって江戸城に出仕し彼の前を通りかかった熊本藩細川家六代当主、熊本藩五代藩主の細川宗孝に向かって背後から脇差で問答無用で一突きにしたようです。
昨日は加藤清正の熊本の大河採用もありうると記しましたが、熊本にはもう一家忘れてはならない名家がありましたね。
細川宗孝は偏諱として「宗」を八代将軍吉宗より、「孝」は細川藤孝からといわれています。・・・そう考えると覚えやすいです。元は継嗣では無かったため長岡姓を名乗っていたそうです(「長岡」は信長時代の勝竜寺城の頃の名のり 地名から)。
その人がつまらぬとばっちりを受けて絶命したというのが定説ですが、何故にして間違ったかという理由がまことしやかに伝わっています。
それが家紋の見間違いです。
板倉家は「九曜巴紋」で細川家はただの「九曜紋」です。暗がりで近眼だったりしたら間違えるのも無理はないような気がします。本当にそれが理由だったとしたら「死んでも死に切れない」バカバカしさがありますね。
細川家では以降家紋をアレンジしなおし「離れ九曜」を使用したりオリジナル性を出すなど「とばっちり」を警戒したとのこと。熊本に行った細川家は元は足利幕府管領家細川京兆家とは分流とはいうものの歴とした家柄。元は足利家同様の「二つ引き両」紋でした。
勝竜寺城に入り姓を長岡に変えたあたりに「九曜紋」にしたのでしょうが細川に戻したのですから家紋も「二つ引き両」に戻しておけばこのような悲劇は無かったのかも知れません。
画像は勝竜寺城の瓦の九曜紋です。
家紋は「二つ引き両紋」「九曜紋」「九曜巴紋」そして星を小粒にした「離れ九曜紋」。ちなみな田沼家は「七曜紋」でした。
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