先日の相良史跡研究会(雑談会)で、本当は皆さんが心の中で微かな願いを抱いていることについて、私は無神経にも「ないだろう」という推測の言葉ながら頭に「絶対に・・・」をつけて言い放ってしまいました。その研究会最年少の私が、お歴々を前にしてです。
「お金がかかるからねぇ」と一同それは納得していましたが。
そうですね、「絶対にない」のはNHK大河ドラマでの「田沼意次」の採用です。おカネがかかるというのは大河ドラマは誘致と一緒で「買うようなものだ」とのこと。ストーリーも地味げで江戸時代、おカネもない牧之原市ではその実現性がゼロに近いというのは無理もないでしょう。
また牧之原市の悪いところはもし、田沼の相良にウェイトを置くとすれば旧榛原あたりの観光関係者からクレームが出たりすること。何をやるにしろ依然旧両町民の「隠れた言い分」が聞こえてきます。
また大河ドラマはオリンピックサーフィン会場誘致と同様有力ライバルがまたぞろ手を挙げています。
オリンピックの追加がまだ決定していない状況下、市内にはその誘致の横断幕当掲げられていますが会場は「静波」(旧榛原町)ということで比較的波は静か。
千葉県の九十九里の外房に対してその利点をアピールするには力不足と思います。特に相良海岸でなく静波海岸だからという理由ではありません。客観的に見てです。
首都圏から中部、福島に宮崎と8つの都県からの立候補のあるなか、政府関係者もつい「千葉だろ」と漏らしたというくらい勝負は決まっていそうな気がします。
噂では20億のうち10億の市の出費でプールを静波に作るといいます。「やっちゃった感」ありますが果たしてどうでしょう。
大河ドラマの「誘致合戦」たるや毎年壮絶なる悲喜こもごもを見せつけられています。
家康にしろ伊勢宗瑞(北条早雲)にしろ大本命が控える中、傾向として「戦国の女性」がポイントとすると私も最近勝竜寺城について記していてそろそろ来るかも・・・と思うのが「おたま―ガラシャ」ですね。
彼女単独でも何とかやっていけそうではありますが「忠興とガラシャ」と夫婦にスポットをあてた構成にするか、「父(明智光秀)と娘(たまこ)」という親子を中心に描くのか想像も広がります。
何しろ戦国の一番に視聴率の稼げそうな事件がこのあたりに集約されていますから。
2年連続で戦国になったため次は幕末が有力となりそうですが、近年中に「アリ」の予感がします。
以前から坂本城明智光秀の声も聞こえています。
また俄かに再評価する声も上がっていてそれも面白くないワケがなく楽しみなところでもあります。
大河ドラマは放送が始まると幻滅することがあって「しばし沈黙」はよくあること。次に何が採用されるかを予想することに結構な楽しみがあります。
一応、地震被災地熊本の件を加味すると今一番に「ありそう」と思うのは加藤清正でしょうか。
「次の次は幕末」と思うところですが異例ということでそちらに向かうかも知れません。
さて家臣団壊滅の状況を目の当たりにした明智光秀が一旦は日没を迎えて逃げ込んだ勝竜寺城でしたが、籠城に見せかけて城の搦手から脱出したことを記しました。
光秀が近江坂本を目指しての立て直しを模索したことは明らかですが、あのボロ負けを目にした将軍は何を思っての敗走だったか同情するところがありますね。
一旦は掌に握ったと思った天下がこぼれ落ちようとしているその「今」ですから。
特に本気度としては「柴田」という腹積もりのところ伏兵の秀吉がしゃしゃり出てそれも意表を突く反転(中国大返し)が成功し、自分の側にあると思っていた摂津の勢力をまとめ上げたところできっと、やはり本能寺のことは「よせば良かった」とも後悔の念が交錯したでしょう。
私が光秀の失敗を挙げれば、何度か記していますが、天王山を陣に据えるべきであったことと、それに関係がありますがあの「サル」を舐めていたというところです。
そして湿地帯の狭量な地形であっても正攻法でまともに大軍を受けすぎたという点です。
通過する街道はピンポイントでわかっていますので待ち伏せと挟撃が効果的と思います。
先日も記しましたが、大山崎は燈明油の産地です。
「たられば」ですが、あらかじめそれらの油を大量に街道筋に潜ませて、誘い込んで攻めあがる軍勢を待ち伏せ、通過する際に火矢を撃ちかけて田畑を火の海にしてやれば、いいように手玉にとれたはず・・・などと思います。
引火力は弱いので他の可燃物との併用は必須ですが・・・。
天王山の上に居て、油の樽を上から転がしてやったらどうかな・・・とも。いろいろな意味で時間がないと感じた光秀なのでしょうが天王山山崎の「ていたらく」振りを見れば結構本能寺あたりからの彼の行き当たりばったり感を思うことがあります。
夜襲夜討ちで主人の信長を仕留めているのですから、今更「卑怯」を気にするレベルではないのです。思う存分相手の裏をかく戦法をとって欲しかったですね。
正攻法の受け身などあり得ません。
光秀はあの丘の上で自軍の壊滅をただ見ていただけのようにも感じます。
実戦に参加してヘトヘトになり疲労困憊極まれば城に籠ってそちらを枕に討死という選択肢はやむを得ないと思うところですが、光秀は精神的には参ってはいるものの「まだまだやるよ」の気概があっての勝竜寺城の脱出だったのでしょう。
しかし本当に体力的に疲弊しているのは秀吉の方だったはずなのですが。
光秀は伏見丘陵を回り込むように山科経由で近江坂本城を目指すに醍醐寺方向のルートを辿ります。
そのルート上に小栗栖(場所はここ)という場所がありますが、通説ではそちら付近を通過中に、百姓(飯田一党とも)の落ち武者狩りに遭遇して竹藪の中で自害したといいます。
場所も色々な説があって本当のところはわかりませんが、思うにこちらは丘陵の裾で細道の「どんつき」。
上方に本経寺という寺がありますが、そちらの寺域です。
そして何より山科川沿いの街道筋というものを考えると少々外れ気味です。
少数の家臣のみの同伴ということから地元百姓多勢に包囲されて逃げ込んだと考えれば合点がいくところですが、「こちらの藪を通過中だった」というのは無理があるような気がします。
石碑の建つ場所の奥にはなるほど手つかずで荒れた竹藪がありました。その先は行き止まり(畑)。
こちらへは徒歩で向かうことにになりますのでどこかに車を置いていかなくてはなりません。高台の住宅地を縫うように標識に沿って探します。
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