先日の東京行脚、品川の桐ヶ谷斎場に向かってそちらで、2日間お世話になったことを記しました。
あの地の語源は荼毘所の煙(煙霧)→「桐ヶ谷」と勝手に納得、そちらの直近の地名「平塚」に更に「ひょっとしてそうか・・・」などとこじつけて想像(平地にあるお墓・・・)を広げます。
私はその辺りの歴史についてまったく触れたこともありませんので確かな事は言えませんが、やはりその近くの地名「荏原」も思う事があります。
単純に、字の通りかつては「荏の原」の地が広がっていたことを示唆しているように感じました。この「荏」とは「荏胡麻」の「荏」で、その一大栽培産地があったのかも・・・というところです。「荏」は日本の古くから伝わる食材であり、主だった使用は燈明油の原料です。
拙寺でも13代祖父の辺りまでは「燈明油と芯」は必需品でした。私の代で処分しましたが、平成に入ってなお油の入った容器が残っていたことを思い出します。古くから寺院等から発生する火災が尽きなかったのは大量の油をもって儀式を遂行したこともあったのでしょう。
油といえば墓道氏の仕事は食用油屋さんで油について講釈させればなるほどと唸らせること多々。健康第一の食生活に油の選択は必須ともいいます。
さて、昨日も記した油谷氏(拙寺での講習会)の姓をみるにまた想像を広げてしまうのが、やはり「荏胡麻栽培地」ですね。彼の家は関西ですがどうしても勝手に思考すると京都でも大阪寄りの大山崎の地の「油座」まで飛躍します。
荏胡麻の栽培・搾油・運送・卸・小売りの組合のようなものですが、
これは油関係の商売を独占的に行います。
この物品に関わるお墨付きは朝廷や室町幕府(絶頂期は三代足利義満)になされますので、誰にも文句を言われない排他的権力が保証されていました。
詳細は「日使頭祭(ひのとさい)」でググっていただければと思いますが「離宮八幡宮」というあの山崎駅前の西にある神社の祭典です。この地が大山崎町の「西谷」というのも彼(油谷氏)
の姓にこじつけたくなりますね。
ブログでも何度か記していますが、そもそもこの辺りは山崎地峡と呼ばれて三川(桂川・宇治川・木津川)が淀川と名を変えて合流する特殊地形です。
この天王山と男山の間の狭い場所に陸路西国街道と水運が並列するという要衝でもあったわけですね。ともに油にしろ他の物品の最大消費地、京都を控えている場所でもあります。
古来より川向うの男山、石清水八幡宮(またはこちら、こちらも)は京都の北東(鬼門)比叡山と対にある裏鬼門(南西)にあたり鎮護国家の思想から朝廷に保護され続けていました。
「離宮八幡宮」は嵯峨天皇の離宮となったことからそう呼ばれていますが、もともとはその石清水八幡宮の元社と言われています。よってブログで以前「八幡宮といえば男山」と記したのは端折りすぎました。
また八幡宮は源氏の頭領必須の社寺ということもあって武士世界に移ってからもその八幡宮の権益は保護される傾向にありましたが、この「油座」というものはまさに「離宮八幡宮」の「神人」(神職・氏子)による独占的排他的事業だったわけです。
当時の「油」で思い出されるのはNHK大河ドラマの「国盗り物語」(司馬遼太郎原作)。
若き日の斉藤道三は「一介の油売り」。
永禄銭の穴に油を通す「とうとうたらーり とうたらり」のパフォーマンスとその調声がよぎります。
諸国の状況を把握できる立場にあったのが通行料自由、非課税の油屋でした。
室町幕府三代足利義満の時に油座が最盛期を迎えたというのは義満の母親が石清水八幡宮検校善法寺通清の娘の紀良子(きのよしこ)であったからと考えるのがスジのようです。
油座を保護するための書状を発給しています。
足利義満袖判御教書
八幡宮大山崎内 東限円明寺 西限
水無瀬河 依為日使大神事等重役神人
在所 自往古以来 惣所不勤公方課役也
爰以関戸院 号摂州内 成違乱云々 太不
可然 早任先例 於山崎者雖為向後諸
事 可停止守護綺者也 就中 内殿
御燈油荏胡麻諸関津料并兵庫嶋
升米以下 固可止其妨状 下知如件
明徳三年十二月廿六日
こちらは義満が「神人」に守護不入を与えた書面です。
応仁文明の乱を通して地域が荒廃し、信長の「楽市楽座」による商業慣習打破(為政者による商行為把握と租税徴収)による独占権威失墜と菜種油の登場によって衰微の途を辿ることになりました。
酒解神社は天王山山腹にある神社⑤⑥⑦。
由緒書に、「中世には離宮八幡の勢力が強大となり」とあります。大量消費の寺社必需品の油に関わる全てを抑え、その物流に多品目を載せる事で殆どの商品の権益を独り占め(「座」)にしていた時代があったのでした。
①は大山崎八幡宮惣絵図(中山家文書 明和八年)から離宮八幡宮絵図。門前を通るのが西国街道。②③が一遍聖絵「淀の上野の里」(清浄光寺)から。
いずれも「離宮八幡と中世の灯明油」より。
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