勝竜寺城主郭周辺の土塁 沼田丸  細川家流沼田

  

勝竜寺城は今でこそ細川藤孝の嫡男の忠興と明智光秀の娘、通称

  

ガラシャの城として名が通っていますが細川藤孝がこの城に

 

入ったのは元亀二年(1571)のことで、これは信長の上洛に伴っ

 

たものです。

 

 

この辺りの城でいえば山崎城、古淀城に次ぐ京都防衛ラインの

 

一画をなしていました。南北朝期説もありますが山城郡代役所

  

施設から始まって徐々に城砦化していったといいます。

  

細川藤孝がこの地を治めるにあたっては信長が観音寺城の近江

 

護の六角義賢・義治を一掃し、足利義昭を担ぎ上げて京都に

 

入って「天下布武」を固めようとする頃です(永禄十一年

 

1568)

 

 

細川藤孝は当初足利幕府幕臣であり、幕府再興に奔走していた人

 

したが同じく義昭の意向を織田家に伝え、信長配下となってい

 

明智光秀と心を同じくして動いていました。

 

 

面白いのはその二人とも、信長が義昭を追放して幕府を滅亡に追

 

込んだことに対して、恭順していることです。

 

最初は幕府継続を大義にして信長に近づき、それが成就されたあ

 

と、その当初の目的の継続よりも信長というものを選択したとい

 

う形です。

 

これは「長いものに巻かれろ」的保身はあったにしろ、それまで

 

にない信長という人物についていこうという発想の転換があっ

 

たということで、彼らには先見の明のようなものがあったのかも

 

知れません。

 

 

もっとも「将軍追放」という事件のわだかまりがあったのか

 

無かったのか不明ですが、光秀は単独で「本能寺」を惹起した

 

のでした。

 

 

 

そのころ京・摂津・大和に幅を利かせていたのは松永久秀と三

 

三人衆。

 

こちらの城は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)の中

 

 で三好を名乗らない岩成(石成)友通が居城としています。

 

 よって戦国の城としての本格的整備は彼の手が始めであるとい

 

うのが通説です。

 

 

観音寺城を一蹴して京都に難なく入った織田信長が三好三人衆

 

を畿内より追い払う手筋で一気に大群で押し寄せて、開城させて

 

います。

 

 

そこで信長が細川藤孝をこの城に入れてさらに大規模な改修を

 

行ったといいます。

 

当初この地長岡に入った藤孝は「細川」→「長岡」に改めてい

 

ます。そして何より、もとの城主岩成友通が入った淀古城を

 

攻めて彼を滅ぼしかつ城を奪取したことが織田家―豊臣家―徳

 

川家と重宝されて渡り歩く軍略家としてのスタートになりまし

 

た。

 

 

 

沼田丸と呼ばれる土塁を廻らした遺構が主郭の西側にありま

 

す。こちらは細川藤孝の妻が若狭国熊川城主沼田光兼の娘で

 

沼田麝香(じゃこう)という人、勿論忠興の母でしたのでその奥方

 

と一統の屋敷と云われています。

 

 

こちらには駐車場が整備され、水飲み場があります。

 

ご常連さんらしき人たちが水を汲みにきていましたが、地下水

 

 100%とありました。この辺りは地形の通り、水源には事欠か

 

ず、地下水はおいしいものがあります。アルコール系飲料会社の

 

大きな工場があるのもそのためでしょう。