品川 桐ケ谷村の荼毘所がはじまり

昨日は品川の桐ケ谷斎場にてお通夜式。

雨、それも「ところによって大雨」と気象庁の嫌がらせ予報を受けてせっかくの東都招へいの気持ちの高まりも半減しつつありましたが、結局霧雨程度の「おしるし」程度はあったもののまったく問題なし。

 

今の天気予報はどちらの局を拝見しても同じ。元ネタ(気象庁発のスーパーコンピューターで解析)が同じということですね。

お天気ネタ好きで気象予報士でも何でもない私的予報では、天気図を一見したところの高気圧と高気圧の間の低圧帯の通過と太平洋上の停滞前線はわかりますが、いくら何でも関東南岸が土砂降りになるなど「絶対ウソだろ」とテンションupは半分残していましたが・・・。

 

私は遠方で法要のある場合、超早めの出立を心がけています。

高速道路使用になりますが不測の事態を回避するためです。

これまで高速道路上で缶詰になったことが2度あって、1度は法要を中止したことがあるくらいです。一つ歯車が狂えばどうにもならないほど固着してしまうのが日本の道路です。

 

当斎場は通夜開式は6時と決まっていますが私はお昼過ぎには到着して、品川神社からその付近を散策しながら時間を過ごしていました。このあたりでしたら10分もあれば斎場に向かうことができる好位置というわけです。

 

故人は大正七年生まれのおばあさん。数えの年齢は九十九歳。若かれし頃は牧之原市静波にいらした地元の大先輩でやはりあの戦争に人生を翻弄させられた方でした。まさに波乱万丈の人生といっても過言ではない方でした。

 

今私たちの人生というものも決して安定感満点の一本線(できれば右肩上がり)というワケにはいきません。大小の振幅あっての人生でありそれを「常が無い」=「無常」と浄土系の宗旨で声を大にして言われるところですね。

その無常観に生きるわれ等に戦争という惨禍は筆舌に尽くしがたい苦しみをもたらすということです。

大義が防衛であれ国家繁栄であれ、戦争は絶対にしてはいけないことをあらためて教わりました。

 

故人の姪の方々が参列していました。

昭和19年の学童疎開に当初は藤枝の岡部の寺に入っていた姉妹です。一人は秋田、一人は富山へ2次疎開に別れたそうですが、戦後再会したときは石川に向かった方の姿は「餓鬼」の如くの姿だったと。栄養失調であと少しで倒れてしまうところだったようです。比較的秋田には食料が残っていて、そう不自由は感じなかったといいますので、配属される場所によっても苦労の高低に差が出てしまうのですね。

相良では地震がありましたし、広島では被ばく死した子供もいました。生死の別れは偶然であって命をつなぐということが奇跡に近かったことを感じた次第です。

 

梅の収穫をしました。収穫はそれほどの量でもありませんでしたがコレを梅ジュースの元とします。

桐ケ谷は古くからの地名で、大元は「霧ケ谷 霧の籠る谷あい」と推測します(「霧」とは荼毘の煙「煙霧」のことでしょう)。

現在は東京の人気の斎場で予約待ちは必然。当方の予定もありましたが故人が亡くなったのは5月31日でした。

お勤めはいつもの東京ルールではなく、後の予定に押されるということは無いようです。ただし4つ?ある会場の別家の通夜が一斉に午後6時から始まりますので、鐘の音やら読経やらハチャメチャになっているような気がします。

 

ホテルは品川駅前の広大なホテル。

4つも棟があって部屋に到着するまで一苦労。まごまごさせられました。どちらも中国系のお客で溢れていました。