昨日のつづき、寺町の本能寺より。
元祖、焼失した蛸薬師通の「本能寺」の「能」の字の「つくり」の部分と同様に「ヒ×2」を嫌って独特のカタチになっています。寺にとって最大の難儀といえば火災ですからね。
大いに気持ちがわかります。
信長滅亡の「6月2日」(天正十年)ではありますが、紀州鷺森に籠城していた本願寺門徒は勿論そちらを包囲していた信長勢もまたその事件詳報を聞いたのは翌日の6月3日だといいます。
当然でしょう。京都から和歌山という距離もありますが、同じ京都にいたとして騒乱は耳目にしたとしてもいったいそこで何が起こったのかなどは大抵の者は知る由もありません。
仏敵・法敵の憎き強敵、かなわぬ相手であればなおさらで口には出せないないながら門徒ならずともそれほど嬉しい「棚から牡丹餅」で人生に於いてそうはない出来事でした。洛中の公家衆皇家にあってもおそらく大概の者は彼に対し腹に一物あったことが窺われますので。
そこのところ既述ですが『鷺森趁跛跳由来之事 』から・・・
「法敵織田上総助平信長・嫡子城之助信忠もろともに、家臣明智光秀がために、昨二日京都本能寺の旅館に於て生害せり
今は詮なきたゝかひなれば、此を注進まをさんために来りたり、かくいふ我は摂州玉川の合戦にて虜となりし、藤白の住
亀井六郎なるが、彼騒動に禁獄を打破り、たゝ今かへり来りしなりと、天へも響けとのゝしるにぞ、
御堂の僧侶これを聞くとひとしく、こは夢にはあらずやと勇み立ち、よろこびあへるぞことわりなり
織田方には、これぞ敵方の計略ならめと、しばし狐疑してありけるが、己が方にも早打の注進来りしかば、諸軍みなみな動転し、今までの気勢一どきにたゆみ、各京師のかたに心せかれ、後陣の引くをもまたずして、右往左往に崩れ立ち、我先々々と引きとりけるは、見ぐるしかりしことどもなり・・・・。」
私どもでは自他関わらず「死」であっても「良き出遭い」であっても「機縁」という語で形容しますが、その機縁は奇遇このうえない良縁だったのでした。
さて、寺町本能寺の信長廟のスグ近くに何と狭い空間に縦に3段並べられた墓×3があります。
色々と墓石には縁の有る身ではありますが、このような形態はあまり類がありません。
脈略が無く横に並べられた墓石たちはありますが、あのタイプは特筆ものです。
お三方の御名を記せば、手前から
①徳川九代将軍家重夫人(西の丸御簾中)十九歳の墓
※御簾中(ごれんじゅう)とは貴人・大名の正妻のこと
御簾を通しての対面(顔を出さない)となるため
江戸期に将軍正室のみ「御台所」
②菅中納言局庸子「清光院殿浄心信敬尊儀」
③島津義久夫人(種子島氏) 「円信院殿妙蓮幽儀」
全部女性でした。
特に一番奥に鎮座して一番大きな③の石塔は元亀三年(1572)の没年が記されているということですが、江戸期の宝塔を匂わす形状であり、そもそもこの人の没時にこの地にこの寺は無かったので、何かを機縁として供養塔なのでしょう。
②の石塔は上部のみ古きを匂わす宝篋印塔ですが、江戸期に新しいパーツを合体させたものでしょう(上部は他人?)。
ざっと見て3人の共通性は「女性」というだけで一所に収まってはいるもののそれら関連性は無さそうです。
スペース的に効率よく並べられた結果がこうなったのでしょうか。
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