伊藤若冲は標記の語の如く「一念発起」して引退。
稼業を弟に譲って絵師の道、自己の世界に「一心不乱」に身を投じました。結果的に稀有な才能が結実し(当初彼の画風は低評価)生誕300年を迎えた今頃になって大きく評価されるようになったのです。
「家業を引退」といっても町年寄として地域(錦市場)の世話人として末端ながら町の「政」(まつりごと)を担っていたといいます。
いわゆる町のトップ顔役として地域の危機的状況にその再生と維持のために身銭を切って奔走しています。
いわゆる「公私混同」ですが、若冲のそれは私財を人のため(公)に投じるというものでしたから、「他者(公)のものを私事に使う」今の都知事さんとは真逆でした。
若冲は政治家としてもその仏教的理念を貫いた人でもありましたね。芸事や酒宴に耽ることはなかったというそうです。
さて、昨日の昼間に民放にて、あるお笑い芸人さんが、「選挙をやれば50億かかるし、知事をコロコロ変えるのはみっともないので(辞職などを期待せず)そのままやらせろ」と声高に叫んでいるのを見ましたが、ああいう様を見ていると「この人はあの知事と繋がりがあるのかな?」などと思ってしまいますね。
まぁ政治家と芸人の区別がつかなくなっているというのも事実ですが・・・。
「将来テレビでお呼びがなくなったら立候補でもするのかよ」とも穿って考えてしまいます。
私が言いたいことは、人の道徳心というものが廃れれば社会、ひいては国全体が廃れるということです。
ザル法と揶揄される政治資金規正法のクリアだけを意図した今年の流行語大賞候補のトップに躍り出た「厳しい第三者」という台詞だけであの知事「芸人」の三文芝居そのものとそれを演じきったという力量には驚愕するばかりで、ある意味感服いたしますが、多くのコソ泥的不道徳をうやむやにしてしまうのであれば「東京人の品位」を疑うことにもなりましょう。
自称「トップに立つ人」であるからこそ、道徳心には厳密でなくてはならないのです。
トップが「法に抵触しなければどう振る舞おうが勝手」という態度をもって通す事があればそれを見ている人たち、特に若者たちはそれを真似るでしょう。
政(まつりごと)の長として人を動かす立場にあれば自ら襟を正さなくてはならないという考え方は日本の歴史なのです。
あのような人物が出てきてしまったという社会を生成醸造してした責任は他ならぬ私たちなのですから、軌道修正するという努力は怠るべきではありません。
50億かかろうが100億かかろうが東京都民の選出の責務というものを果たしていただきたいと思います。
現状の辞めざるをえなくなった知事を選出してきたという「みっともなさ」と恥の上塗りを重ねる特殊技能の芸人知事を抱っこちゃん人形の如くあの席にしがみつかせる「みっともなさ」のどちらがマシなのでしょうか。
「自分が消える」という選択肢はどの世界においても検討価値のある方向性であることも忘れてはなりません。
テーマは道徳です。ただしそれは「自分大好き人間」(饅頭に似顔絵等々・・・そもそも公金は自分のため・・・)の方にはそれは苦痛でしょうが・・・。
さて、伊藤若冲の仏教世界への傾倒は「禅」にありましたが、標記の「一念発起」「一心不乱」の語の本来の対象は「南無阿弥陀仏」ですね。「一念」も「一心」も殆ど同意かと。
これは「至誠心」(しじょうしん)という「真実の心」を表現した当流あるいは浄土教系の語に繋がっていきましょう。
「心」をテーマにしてそれを突き詰めていくという当流ならではの方向性ですが、それは他力であって自力修行の難行道に比してこれを「易行道」(一見称名だけに見える)とは申されますが、私からすればその「真実の心」を確信的に心に抱いて行動する方が余程難しく感じますがいかがでしょう。
「一心不乱」などいう語は最近はネガティブイメージとしても形容されることが多くなりました。一つの事にこだわり続けて他を顧みない様子など、それを形容しますね。
ストーカーという妄想に駆られた人々が陥る様子をも表すことがありました。
今、知事の椅子に頑としてこだわり続けている東京の知事さんの様子も一種「一心不乱」なのかも知れません。
再度記しますが「一心不乱」も「一念発起」も南無阿弥陀仏でひとえに「私の心」の本質を掲げるものでした。
「至誠心」は観無量寿経より。数えればその経典だけで「心」という字が52回記されています。
「一心不乱」は阿弥陀経。「一念発起」は歎異抄(14)が出典となります。
トップに立つと自負する人の自制の心というものの存在が信じられなくなった今、もはやその資質を疑うレベルにまで陥っているということは間違いないでしょう。
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