郷土愛を感ずる 横地一族と井伊直孝出自の推測

リタイアした学校教師の話。

昭和二十二年の牧之原市(旧相良・榛原)の小中学校の数88(分校含む)校のところ現在は21校の1/3以下になったと。

これは新たに廃校が決まった片浜小学校の件から出たのは言うまでもないこと。この人口減少ラインはどのあたりで底打ちするのか見当もつきませんね。

 

続けて仰るのは、今本当に授業を欲しているのは熊本なのだから牧之原市はもっと手をあげるべきだと。

市が管理しているガラガラの「勤労者住宅」を開放してもいいし、被災地の復興に重点を置いたスタンスがとりやすいようしばらくの間「子供たちの教育は任せてくれ」と臨時里親制度のようなものを立ち上げるくらいの懐の深さを見せてほしいと続けていました。

 

なによりも牧之原市は静岡県内における熊本県市町村との友好姉妹都市を結んでいる唯一の街だからですね。

勿論それは相良発祥の相良氏と新補地頭として熊本人吉に下った相良氏との関係によります。

 

先生はその件を市の方にあげたところ「そういったシステムがないから」を理由に断られたとのこと。

臨機応変とはそういう場合には新しく状況に応じて「システム」でも何で作ってしまえばイイことなのですが。もっとも「カネがない」が大抵の理由ではありますが。

これじゃあ次の私たちの時も「受け入れシステムが・・・」を理由に蹴飛ばされそう。来る来ないは先方の判断です。

選択肢として受け入れ態勢だけは整えてほしいものですね。

 

さて本日は拙寺本堂にて相良史跡調査会の総会がありました。

恒例の「私これでも最年少です」の会です。

皆さんメンバー表を眺めて溜息ばかり、「この人は死んじゃった」「施設に入っちゃった」「倒れて動けない」「もうダメ」という言葉が行き交って、まったく減る一方の感。

最近は茶道華道のクラブが高校で廃部になったり、その伝統が廃れつつある中、現状国の方では、文化だその交流だとの声だけは勇ましいことに関して「チャンチャラ可笑しい」と一同。

ましてそのような雰囲気の中このような会に出て人の話を聞いて地元史をひもとこうなどという若者が出てくるというような気がまったくしないですね。

若者たちもスマホとゲームをやってた方がマシなのでしょうねおそらく・・・。

 

今回、格別な郷土愛と私とはかなりの「温度差」を感じたのは、地元「勝間田と横地」びいきでした。

「今川憎し」の気持ちが前面に出て、まさに今川は敵(かたき)。ある人は今川義忠塩買坂で討ち取られた際の通説、「横地討伐の成功の帰り途」について大いに疑わしいと疑問を呈していました。要は「横地は負けていなかった」「今川に歴史を作られた」との御説でした。

私の方は勝ち負けの問題よりも義忠が「新野」方向に向かっていた件へ展開しようとしていただけに、鼻を挫かれた格好になって、その方向への話に展開できず聞き役に徹することとなりました。私は義忠は新野での休息を目的に塩買坂を登っていたのかと推測していましたので。今川―新野の近親度をつかみたかったのでした。

 

また、恒例のK氏の講演議題は来年の大河ドラマ「・・・直虎」の件。復習させていただきましたが、そこで皆さんから出たお話しが井伊家が他家、特に御三家なども差し置いて大老を5人も出せた「別格さ」です。

 

これは藤枝あたりでは当たり前の話で、それこそが通説となっていますが、井伊直政の後継の井伊直孝(寛政重修諸家譜567)について。

直政なみに記述の多い人ですがこの人の出自は藤枝です。

してその出自について藤枝の郷土史家の中、当たり前の如くいわれているのが井伊直孝の家康御落胤説です。

家康が鷹狩に出た際、藤枝の庄屋の家に宿泊し、そちらの娘との間に生まれたのがのちの井伊直孝だというのです。

 

直政は家康よりその子を有り難く頂戴し、家督を相続させたということになりますが、その件は各家、「井伊家別格」(四天王筆頭)の暗黙の了解があったために幕末まで「家」として権勢を振るったという講釈です。

「藤枝では当たり前」の話とのこと。

 

画像は御前崎市商工観光課が慌てて作ったパンフレット。

興味のない人を引きずり込めるほどのデキではないような気がしますが、それは無理もないかもしれません。

「遠州忩劇」(今川家臣団の崩壊)という一大スペクタクルの中の新野をあの限られた紙面でアビールするのは・・・ちょっと酷。

 

パンフには新野家家紋が記されています。

ご存知「丸に二つ引き両」。

この紋は今川家と同じであらためて今川からの流れを示唆しているように感じます。

 

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コメント: 2
  • #1

    川合信行 (土曜日, 22 10月 2016 11:26)

    焼津市中里「若宮八幡宮」の氏子総代を務めています。当社は寛永6年(1629)、彦根城主井伊掃部頭直孝が、自らが生まれた中里の地に自らの産土神として石清水八幡宮の祭神を分祀し建立したものといわれ、その証しとして寛永の三筆と言われた松花堂昭乗によって書かれた棟札が昭和53年焼津市の指定文化財に登録されております。また、この社に隣接した地には、直孝が産湯の際に使ったとされる「産湯の井」が今も残っており、こちらも平成25年、市の指定文化財に認められました。こうした中で、貴殿が下記の如く言いきっている根拠は何でしょう?私自身、現在、当社と井伊直孝に関し勉強中であります。お教えいただければ幸です。

    これは藤枝あたりでは当たり前の話でされこそが通説となっていますが、井伊直政の後継の井伊直孝(寛政重修諸家譜567)について。直政なみに記述の多い人ですがこの人の出自は藤枝です。そしてその出自について藤枝の郷土史家の中、当たり前の如くいわれているのが井伊直孝の家康御落胤説です。家康が鷹狩に出た際、藤枝の庄屋の家に宿泊し、そちらの娘との間に生まれたのがのちの井伊直孝だというのです。直政は家康よりその子を有り難く頂戴し、家督を相続させたということになりますが、その件は各家、「井伊家別格」(四天王筆頭)の暗黙の了解があったために幕末まで「家」として権勢を振るったという講釈です。「藤枝では当たり前」の話とのこと。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 22 10月 2016 16:05)

    ありがとうございます。
    「若宮八幡宮」の件了解いたしました。
    そして大変な失礼千万の殴り書きをしていました。
    申し訳ございません。
    私も当地の研究会に集まった皆さんの雑談をそのまま記したということと
    この辺りでは(失礼ながら)「藤枝も焼津も殆ど同じ」くらいの感覚でしかなく
    つい端折って正確な行政区分けをしませんでした。
    お詫びいたします。
    また「若宮八幡宮」「産湯の井」ともに訪れたいと思います。
    どうぞまたよろしくお願いいたします。