昨日は秀吉晩年の城、伏見城について記しましたが同じ山城(やましろの)国中にあって秀吉が関わった城に「立地要衝」として古くから名の残る天王山城がありました。
戦時、特に防衛の城として各迎撃態勢に不可欠であると万全期して陣取った地だったと思います。
ちなみに昨日記しました伏見城の地は要衝というよりも京都東山の南のへりにあって近くには古くから天皇家の墓域があったり、指月城の趣旨の通り宇治川に写る月を愛でるなど風雅を遊ぶための城でした。
こういう城の在り方の変遷からも武将としての秀吉が我が世の春を謳歌して貴族化していった様子がうかがえるというものです。
単純に見ても伏見城は天王山よりも洛中に近い場所にありますので、隠居後とはいえ政治的にも口を出すには好都合の場所でした(位置関係)。
さて、「天王山」の三文字については「人生を分かつほどの決戦」を意味する言葉として言い古されていますが、これは御存じの通り、天正十年(1582)の本能寺の変ののち、秀吉が世にいう「中国大返し」をやってのけて明智光秀を破った「山崎の戦い」で特に有名になりました。
山の標高は270mでさほどの高所ではありません。
名神高速の天王山トンネルが貫いていて、以前息子に天王山にナビを任せたら、寝ぼけ眼でそのままナビに指定したため、天王山トンネルを通過するハメになったことをブログでも記したことがありました。
度々この辺りを記していますがこの山麓には美術館あり、お寺等ありでのんびり回っていれば1日のお遊びでは厳しいかも知れません。
地的要害性は何といっても天王山と向かいの石清水八幡のある男山との狭小な湿原地域に3本の川が集まって流れ、そちらに街道が走っていることをいいます。西国からの京都入りにはまずこちらを通過しますね。
大軍勢といっても一気の通過はままならない場所でした。
第2時世界大戦中、ドイツのU-boatが地中海のジブラルタル海峡付近で艦船を待ち伏せたり逆に沈められたりしていますが、入出路の狭い場所での待ち伏せは戦時の常套手段です。
しかし、秀吉が中国から大急ぎで京都に向かい順調に進軍できたものの光秀の動きについて、どこで、どのような戦法で秀吉軍を迎撃すしようと待ち構えているのかは未知数だったでしょう。
それでも往古から西から京都への侵入路を絶つにはこの天王山であることは誰でも知っていること。
秀吉の懐柔工作を伴っての勢力集結しつつの上洛軍は膨れ上がって、勢力の差は圧倒的。
光秀不利と叫ばれる中、やむを得ず正攻法でぶつからざるを得なかったのでしょうが、それはあまりにも時間が無さ過ぎた焦りの「一か八か」だったのでしょう。
光秀のような知略に富んだ武将でしたら、秀吉軍を喰い止めるに天王山に籠った方が勝ち目はありそうなものと感じます。
何より秀吉も焦っていましたね。
光秀を討ち取ることが大義であり、発言権確保という果実が転がり込んでくるという算段がありました。
また懐柔工作も「信長は生きている」の大ハッタリをブチあげての根拠でしたから・・・
無理な我攻めが予想され、籠城明智光秀を無視することも、包囲して兵糧攻めなどもあり得ないことでした。
光秀は当初の目論見が剥落瓦解していく中、無理な正攻法の戦いを選択してしまったわけです。
天王山が空いていることに秀吉自身が入ることができることよりも明智軍がこちらを目もくれずに入城しなかったことに特に喜んだのは秀吉ではなかったのでしょうか。
結果的に、出たとこ勝負となってしまった光秀の計略の甘さが負け戦の要因ですが、タラレバで失礼します、現状開き直って男山と天王山に分散して籠城してみるのも一手だったかも知れません。
天王山から見た男山の画像はこちら。
画像黄色の矢印が天王山。青色矢印が男山。緑いろ矢印はお馴染み京都競馬場。④~⑥は天王山から。④は大阪方面。高層ビルが見えます。クリアですとあべのハルカスが見えるとのこと。⑤⑥高速道路付近が合戦場。
秀吉は清須会議以降、天王山に天守閣つきの城を整備したといいます。堺屋太一の『秀吉の「天下人への道」はここからはじまった』の文言が記されていました。
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