行基が関わった橋掛け等土木工事と寺院開基はここ駿遠においても耳にするわけですが、「伝承の域」は超えていないという感じは受けますね。
これが「行基スーパーマン説」と言ったら怒られましょうがブログでも触れていますが身一つでもって全国的に活躍できるとは思えませんから。
その名が各地に見られるのは「行基の分身」・・・行基の教えを流布して実践した弟子たち・・・が多数あったに違いありません。
以前の大阪の堺方面行脚は助手席の寝ぼけた息子に「天王山へ」行くからとナビに入れてもらったことから始まったことでした。ポンコツのナビゲーションとあいまった顛末。
その行程は名神高速道路の天王山トンネルを指示していたことに気づいたのは、トンネルの中。急きょ目的地を変えて(どこでもよかったのですが)堺に向かったのでした。
その堺が行基の故郷であり、活動域は畿内周辺が主であったことは当然だと思います。
昨日に続いて天王山。こちらにも行基の名が見えます。
行基といえば「橋」を思い付きますが、この地と言えば先日、京都南部の地盤の脆弱性について記しましたが、桂川・宇治川・木津川の三川が天王山の麓で寄り合うようにして流れる場所であり、大坂方面からの街道の要でもあることから、「橋」について云々は合点がいくところです(上記最後の画像)。
昨日の踏切を超えてスグに山登りに入らず(後ろから4つ目)、右方向に歩をすすめれば行基が建立した山崎院の址の碑があります(同3つ目と2つ目)。
きっと今でいう土木事務所兼布教を旨とする寺院だったのでしょうか。
奈良時代の遺物も発掘さけていますので、行基の信憑性は高いかも知れません。
この天王山にはもう一つ、行基に関わる寺として、その山の名を山号とする宝積寺(ほうしゃくじ)があります(場所はここ)。
地図では「宝寺」と記されています。地名に「銭原」と残っていますが「宝が積まれる=銭の原」は聖武天皇の体験夢告、「打出」と「小槌」からといいます。
山号はこれも全国的によく見られる「補陀洛山」(ふだらくさん)という山号を名乗っていた時期がありますが、この山号からイメージするのは「本尊が観音菩薩」というところ。
その「補陀洛」の意が「観音菩薩がいるところ」だからですね。
ということでご本尊は十一面観音さん。
門前には勅命聖武天皇の名が見えます。
行基が上記山崎院を建てたのが天平三年(731年)といいます。
例の東大寺盧舎那仏造営が741年以降と「民の行基、官の行基」という相反する姿を見せていますが、これは「時間の変遷」(若いうちは庶民に向かって、それを評価されて官に招聘)と考えればラクに納得できますが宝積寺の寺伝によればすでに724年に聖武天皇の命による開基されたということですので、その考え方によれば「時間」に矛盾を生じてしまいます。
さて、この寺が天正十年の信長が明智光秀に本能寺で討ち取られてからのドラマ、「中国大返し」の「とりあえず」の中継ポイントでした。
この寺に陣を張り光秀の動向をうかがい出陣のタイミングと陣形を整えるためにしばしの休憩をとったのでしょう。
古い寺だけに石仏と墓石がお出迎えしてくれました。
やはり境内周囲の空堀の如くの凹凸は城砦址を連想してしまいます。
重文多数、このお寺の境内を息子に伝えるべきでしたね。
三重塔は山荘美術館の画像からも見えました。昨日の槙ではありませんが蛤御門と東本願寺等洛中を焼き払って逃げ込んだ長州藩士真木和泉らの墓もこちらから上がります。
天王山城に登るにはこちらの境内からが一番です。
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