昨晩は100分で名著、「歎異抄」の最終回を見ました。
一番印象的だったのは、「つまみ食いのハイパー宗教」の件。
時として暴走逸脱するという性質が隠れている宗教というものは体系を辿れば各所に「リミッター」ともいえるコントローラーが作られているという表現をされていて、なるほどと思いました。
時代の変遷により独自に開発し収まっていった宗旨、教えの収斂により今の各宗教史観があるのでしょう。
それを各宗教の「いいとこ取り」「つまみ食い」をして何か「すばらしい教えを構築」しようとしてもそれは「危険」な方向性ということを伝えていました。
リミッターを発動するシステムも無ければ、その経験則も無いということでしょう。
「何かすばらしい宗教」を興すということが「誰にとってすばらしい」のか、本末転倒しているような組織は、まぁその「リミッター」構築の経験が些少な新しめの宗教の部類が多いような感じがします。
そもそも拙寺宗派は「本願他力」を旨としていますので、如来のはからいをそのまま「笑顔」でもってその「おまかせ感」と「南無阿弥陀仏」で接しさせていただくだけですが・・・。
基本は「笑顔」であることは確信しています。
本日はその出典を示したいと思いました。
先日は「エ○バ」の訪問者が終始笑顔の表情を崩さなかったことを記しましたが、コレは一つの「いいとこ取り?」とも私は感じたものです。
そこの「笑顔」のところ、仏教では昔から「和顔愛語」という語で大無量寿経に記されています。
さて、司馬遼太郎が彼の本名「福田定一」の苗字「福田」について筋金入りの真宗門徒の匂いを示唆した部分がありました。
その経典の序文に、その「福田(フクデン)」という語が出てきます。もちろんその語は仏教から出た言葉ですが、経典では
「獲諸豐膳、貯功德、示福田」
「もろもろの豊膳を獲、功徳を貯えて、福田を示す」です。
その直後に綴られている言葉が標記
「欲宣法 現欣笑 」「 法を宣べんと欲して 欣笑を現ず」です。
「仏が教えを述べる際、思わず微笑む」という場面ですね。
仏の方が聞く者の存在そのものと、聞くという真摯な姿勢に自ら安心、信頼を得てどうしても顔がほころばずにはいられないという場面です。
よってコレが真宗坊主たるもの、それを真似て生きるべし、なのです。その「真似」は自らのはからいではなく、コレも如来のはたらきであると存知。
いいお日和で・・・昨日の境内の御挨拶。
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