檀家さんに教わった「東海百城」選出の件、私もベスト5を選んでみたくなりました。
これは静岡、愛知、岐阜、三重の東海4県限定で「歴史探訪にふさわしい城」を専門家3名に選んでもらおうという企画で100城がピックアップされていました。またそれぞれの先生方の好みのベスト5が公開されていました。
ざっと目を通せば「ふむふむ・・」まぁ人それぞれですね。
ということで私の東海地区ベスト5をいや5つでは足りないほどですが・・・。
①④は地元遠州の城でブログでは何度も記している城で外せません。②③はともに岐阜県で双方遠くない位置関係にあります。②は石積みという人為的工作物を③は天然石を利した要害性がイイところ。
⑤宇利城は知る人ぞ知る、「夢のある城」です。
場所はこちらで新城市になりますが、山吉田の柿本城からでも比丘尼城からでも・・・
比丘尼城は宇利城の支城だったともいわれていますが、そのブログの画像、「中宇利交差点」脇に宇利城登城者用の駐車場があります。
拙ブログでは初めての登場となりますが、その「夢」以外にも遺構の残存性、標高160m比高90mと比較的低めの山城ながら要害性は抜群の城でした。
ただ城を高い山の上に作ればイイのではなくこのような立地も持ちこたえられるということを証明しています。
攻め手からすれば、大いに悩まされたといわれる城です。
ただし落城の憂き目にはあっていますがそれは内部からの裏切りをきっかけとしています。
そして「おお!」と感動させるのは、この城の大手道に一つの墓が建っていることですね。
戦闘があった城というものは全国にかなりあって当然に戦死者が出ているものですが、案外城址に墓域があることは珍しいものがあります。
観音寺城の布施淡路丸などの墓地は後世になってからおそらく地元の墓地として建てられたものでしょう。
諏訪原城内にも各所に墓碑は見られますが、これも後世のものだと思います。
諏訪原城では卵塔(無縫塔)も一部散見できましたので、廃城後江戸期から昭和初期にかけて何かしらの寺院があった可能性も想像できます。
城に墓が有ることは珍しいといっても通常は遺された者が家族の戦死の報を聞いて、戦地に赴いて五輪塔の一つも建てるというのが一つの供養の仕方だったでしょうから、廃城の城址には墓があったとしても不自然さはありません。
よって建てられた墓碑等は時間の経過により、土壌が自然・人工含めて改変されて墓が破壊、散逸したり周辺寺院に集められることによって今となっては見かけられなくなったということかも知れません。後世の整備によって片づけられたということでしょう。
私からすれば城を歩いて墓に出会うなどは一石二鳥の有り難さを感じてしまいますが、このお墓の被葬者は福釜松平家の祖の松平親盛です。先日ブログ画像の④の人です。
松平清康がその死を大いに嘆いたといいますが、彼が討死した場所がまさにこの墓が建つ場所でした。
「三河物語」の記述に松平清康が二十歳の頃に宇利城攻めに先手として大手を進み親盛は当初の劣勢に一歩も引かずに多くの傷を被って主従12~3人と共に討死したと。
300~500名の籠城方に対して、松平清康率いた軍勢は2000。
数的優位の攻め手を悩ませたのは籠城方の必死の防御もありますがこの城の構造がありました。ただし実際の戦死者は460余名。城方370名、攻め手方は意外にも90名で攻め手が圧倒していました。
前述した攻め手(松平清康)の右腕となって戦働きをした重鎮、松平親盛が戦死したことによるダメージが宇利城を難攻の城と伝えていったのかも知れません。
松平親盛の官位が記されていますが・・・
墓石前面は崩れて、「松」の字が判読できるだけです。
そして「夢のある城」の「夢」とは・・・→2016.04.13
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