無嗣改易も復活  菅沼定実兄弟愛  新城菅沼家

昨日は東京方面からの参拝がありました。

時間があるということで、静岡行のバスの発車時間を見計らって菅山の石油の里(史料館)と塩買坂の今川義忠の墓を私の運転でご案内しました。

相良には詳しいつもりだったそうですが、「石油の件」は初めてで喜んでいただいたようです。

 

塩買坂は30分おきに出る相良ターミナル発の静岡行特急の時間調整のオマケでした。菅山の石油井戸からあっという間(5分程度)の距離ですから。

ざっと得意になって説明させていただきました。義忠からの今川家のお話は「伊勢宗瑞」を抜きにしては語れませんね。

 

檀家さん、非檀家さん関わらず、「ボランティア案内させていただき〼」。お気軽に問い合わせください。

 

さて、三河菅沼氏について諸流あることはブログにて記しました。たまたま新城の泉龍院にて菅沼家末、「菅沼さん」の墓参に遭遇したときのお話も特筆ものでした。

 

菅沼一統は今川・武田・徳川、時に織田という「戦国」を代表する猛者どもの割拠する地にあって稀にも後世まで繁栄した家系であることは井伊家同様です。時に「滅亡」の憂き目にあうことなど当然の時代でしたから。

所詮その生き残りのキーポイントとなった人といえば、徳川が一目を置いた菅沼定盈です。彼の名が「大御所様の歴史」に燦然と輝く功績を遺したからこそのその家系が続いたといっても過言ではありませんね。

 

その菅沼定盈の六男として野田城で生まれた菅沼定芳は伊勢長島藩二代藩主(初代は兄定仍)-近江膳所藩主-丹波亀山藩4万1000石初代藩主まで上り詰めます。若くして2代将軍秀忠付となっていたこともそのトントン拍子の背中を押したことも確かでしょう。菅沼定芳の碑も先の新城の泉龍院の菅沼家墓域にありましたね。

57歳で亡くなりますが亀山藩を継承したのが菅沼定昭(さだあきら)。ところが彼は正室も側室もとることなく世継ぎ不在のまま23歳で急逝してしまいます。

その後生の一大事「まさか」の事案に、菅沼家は何らの対応もできずにいわゆる幕府の処断、無嗣改易とあいなりました。

 

当時お家断絶については条件厳しく、幕府方としても問答無用で潰しに入っていた時代でもありました。ところが幕府方の温情の特例処置がなされて定昭の異母弟の菅沼定実に菅沼の名跡を継がせるいうことで復活。その幕府の気配りがイカしていて先祖ご縁の三河新城だったわけです。

定実は新城1万石の拝領で、「大名」格はあったのですが、兄定昭もそうでしたが弟に知行を分けたために「交代寄合」身分に収まったのでした。

 

菅沼定芳の顕彰碑があの寺にあったのはきっと菅沼家最大の知行地を拝領した最盛の人であり、一旦改易された菅沼家が復活したのは菅沼定盈の名とともに幕府勃興期の定芳の働きが顕著だったことからでしょう。

 

新城に復活した初代菅沼定実は宗堅寺という寺を丹波亀山から新城に移設していますがそちらが菅沼家菩提寺です(場所はここ)。

実はこの寺の存在は泉龍院の墓地でお会いした「菅沼さん」に紹介されたのでした。墓域には菅沼定実から11代の定長まで当家歴代の五輪塔群が立ち並んでいます。

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コメント: 10
  • #1

    きんどーちゃん (火曜日, 03 7月 2018 00:12)

    初めましてこんばんは
    ネットサーフィン中に関係者の名前に出会い思わずコメントを御容赦下さい
    京都経由東京在住の野田菅沼 の末です
    (元来の本家筋は田峯です)
    家紋は丸に釘抜きです
    私も菅沼について 色々と探訪勉強中です
    菅沼の菩提寺は移設はしておらず
    各地にあります
    丹波亀山の菩提寺は亀岡市宗堅寺
    近江膳所には大津市に安昌寺と言う菩提寺もあります
    そして上記の宗堅寺も菩提寺です

    ちなみに
    定盈(勝徳院殿長翁宗堅大居士)の400回忌法要は
    平成七年四月二十三日に亀岡市 幸雲山 宗堅寺にて執り行われました、宗堅寺の名は定盈戒名から来ています

    また、無嗣改易から免れた理由には定盈正室専徳が長沢松平家7代当主政忠公の娘(政忠公の正室は、松平清康の娘)故に専徳様と家康公は、又従姉?又従妹?という関係性が重いかも知れません(個人的見解)
    どうも差し出口を失礼しました

  • #2

    今井一光 (火曜日, 03 7月 2018 01:39)

    ありがとうございます。
    田峯菅沼本家筋の菅沼さんですね。
    楽しい話題をありがとうございます。
    丹波亀山も大津も案外と寄らせていただく事が多い場所ですので
    次回伺う時は両寺院にも足を運びたいと思います。

  • #3

    ジョンカモン (水曜日, 04 1月 2023 15:37)

    こんにちは、ほとんど初めましてです。
    新城の泉龍院の逆質問の菅沼です。
    ひと昔のことになってしまいました。
    本当に久しぶりにコメントさせていただきます。

    きんどーちゃんも探訪勉強中との事でしたので、
    休止状態の私の探索(散策かも)再開しようかなと思い立ちました。

    年に一度、伊勢長島(桑名市)の花林院、そして、新城の野田地内の宝林寺
    にお墓参りに行きます。

    花林院には五輪塔がふたつ、菅沼定盈、定仍の室です。
    本来の姿に戻すにはかなりの修復が必要かと思います。
    これが、お殿様の妻であること、案外地元の方はご存知ないのかも知れません。
    お二人で寄り添う姿、感無量、お役目お疲れ様でした。

    宝林寺、時代はさらにさかのぼる。戦国の世、雨山合戦にて討ち死にした
    菅沼定村の弟たちのお墓と言われています。
    菅沼定満と定貴の五輪塔があります。
    こちらもかなりの風化が進み、どうしてあげたらよいのか悩むのであります。
    詳しいことは分かりませんが、昭和10年頃に発行された郷土歴史書に記載されてます。
    彼らのお墓は、雨山合戦地にもあるようです。
    最近、雨山地域の有志方々が歴史探訪活動でそのことを紹介しています。

    きんどーちゃんへ
    情報共有をしましょう。
    宜しくお願いします。

  • #4

    今井一光 (水曜日, 04 1月 2023 19:25)

    ありがとうございます。
    お久しぶりです。
    雨山合戦地https://www.daitakuji.jp/2016/01/30/%E9%81%A0%E5%BE%81%E3%82%82%E8%A8%8E%E6%AD%BB-%E8%8F%85%E6%B2%BC%E5%AE%9A%E6%9D%91%E3%81%AE%E5%A2%93-%E9%9B%A8%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6-%E9%98%BF%E7%9F%A5%E6%B3%A2%E5%9F%8E/
    は山の中、泉龍院同様一度きりしか訪問できていません。

    それでいて桑名には何度かふらついていますが門徒寺ばかりでその花林院はパスしていました。是非にお参りしたいものです。

  • #5

    ジョンカモン (金曜日, 06 1月 2023 07:44)

    雨山のお墓のことでご存じかも知れませんが、
    現在、定村のお墓がある場所より手前、
    県道沿い右側の竹藪の中に関係者の古い墓石が点在してます。
    定満や定忠と思われるものがあります。
    そもそも、定村の墓石は雨山ダム建設時、県道工事の影響で現在地に移設されたそうです。

    野田のことになると、つい気合いが入ってしまいました。
    きんどーちゃんが、京都経由の東京在住の野田?田峯?と記されている事が、
    気になって、気になっています。


  • #6

    今井一光 (土曜日, 07 1月 2023 07:49)

    ありがとうございます。
    相当以前の事となって定かな記憶ではありませんが、墓石群がまとめられた場所にはお参りしています。何も案内がありませんでした。
    あらためて雨山が今の岡崎市というところ、岡崎市も「結構に広い」を思います。

  • #7

    ジョンカモン (火曜日, 10 1月 2023 11:45)

    くどいようで申し訳ありません。
    雨山合戦碑の手前、ダムに向かって県道沿い、右に小川があります。
    小さな橋を渡るとすぐ、左側の竹藪の中に古い墓石群があります。
    そこに、定村の弟たちのお墓があります、と表示されております。
    どうぞご参考までに。

  • #8

    今井一光 (火曜日, 10 1月 2023 21:26)

    ありがとうございます。
    それでは完全に私が見落としている場所ですね。
    気づきませんでした。
    なかなか足を延ばせない場所ですがいつかはカメラ片手にお参りにいきたいと思います。

  • #9

    今井一光 (金曜日, 13 1月 2023 23:05)

    いつもありがとうございます。
    雨山再訪、菅沼新三左衛門定貴・半五郎定満と近藤彦七の墓にお参りしてきました。
    2023年1月14日のブログで記しました。

  • #10

    ジョンカモン (木曜日, 11 1月 2024 14:58)

    きんどーちゃんさんへ
    どうしても気になることがありまして、
    野田の流れとのことですが、どの代(定盈以降以前?)でしょうか。
    よろしければ、野田の末である由縁をお知らせいただけるでしょうか?