小和田哲男先生が「剣と紅 戦国の女領主・井伊直虎」の著者の高殿円氏と浜松市で対談会があったそう(ブログ拝読)。
その書籍については私も多方より推奨を受けていて、「番組」が始まる前には手に取ろうとは思っているものの今のところ実現には至っていません。
その対談の中で小和田先生は作家から鋭い質問を受けて少々たじろいだことを吐露していました。
特に「井伊氏が支配していた領地の石高」「領内人口数」など普段考えもしていなかったことなど・・・とのことでした。
現場で推測即答するというところが先生の凄さですが(「自信はないものの」と仰っていましたが・・・)、太閤検地で遠江全体の石高が15万5000石ということで、「3万石くらい」。人口については、桶狭間の戦いのとき、井伊直盛が200~250人を率いていたと思われるので、「1000人くらい」と答えたそうです。
質問に対して実数を提示するということは聴衆に納得してもらえますね。
やはり上記の「3万石」という数字は驚きます。
井伊に関わる地をちょろちょろと廻っていますが、まったくその広大さには驚かされます。井伊家の系図をチラっとでも見てもわかる通り歴史も古いし、彦根藩から明治まで続く家です。
通字の「直」だらけのオンパレードには疲れ果てますね。
ましてこの手の古いものは伝承、前後逆、混同、誤記がつきものですからほどほどですね。
そういう理由で放棄していたら探求は永久にできないことはわかっていてもそれほどムキになって知らなくてもイイ部分というものもあります。「だいたいでOK」というヤツですね。
ということで「よくわからない」というのがここ渋川の井伊家。
昨日の渋川大銀杏のスグ先に「渋川」のバス停があります(画像⑦場所はここ)。この渋川には渋川氏を名乗った井伊谷の井伊分家が入っています。本家の繁栄とは別にこちらの独自の文化を育んでいたという歴史がありました。現在はその跡形も感じませんが・・・
画像看板の標題のボダイジュは墓域左側にあるようですが葉を落としていてわかりにくいですね。
私の方は墓石の方にのみ気を取られてしまいますので・・・
とにかく墓は8基。一番右が井伊家四代目井伊惟直(直之)の一石五輪塔。なるほど古そうですが、そのお隣直貞からが当地の渋川を名乗った一統の墓ですね。この人の墓があるとすれば他の本家筋の墓が無いというのも不思議です。
また左端二つの宝篋印塔崩れのような墓は古そう。苔生していて文字はわかりませんが、この掲示板の信ぴょう性というのも今一つですね(シロート判断で申し訳ありません)。
墓石各パーツも素材の違いが見た目も明らかで、移動時に間違えたか、もともとから荒れていた墓域を統合して判明分のみ後世に伝えたという感じがします。無銘判別不能の墓碑残欠も散見できました。
街道筋を通行していても注意していればこの墓域は目に入ります。
ちなみそのボダイジュをかつて植えたのは墓地移動の標だったそうですが、当地の小字に「スロウ」という名があるそう。意味深ですね。
「シロ・・城」がなまってそう呼ばれたといわれているようです。そしてこの墓域はもともと「城」(渋川城)につきものの「殿」がついた地(殿界戸)にあったそうです。
そういえば龍潭寺にも四代井伊惟直の墓がありました。
こちらのブログの下方で記した井伊家墓域の五輪塔群のうち向かって右列の一番奥のもの②です。
ただしあの墓は4名の合葬墓で正面右側に井伊家二代の「享元良運大居士」井伊共家、同左に三代井伊共直、左側面に四代井伊惟直です。
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