ばかばかしいほどの私どものあたふた、昨日記した32インチモニター壊れたの件、朝から息子をたたき起こしてその撤去を依頼しました。庫裏の方に片づけてもらったそれを処分について考えながら念のため電源プラグを入れてみると・・・、何と通常通り「ON」OK。復活しているではありませんか。
理解不能、意味不明ながら再度本堂に戻して再設定したという次第です。
昨日から本日にかけてのプロジェクター選定の時間はいったい何だったのか、甚だ疑問となります。
ただしあの手の症状が発現したからには信用はできませんので、方向としてはプロジェクターを導入する方向に半身を入れています。無駄な動きばかりで疲労している自分があります。
さて先日物知り顔で得意になって記した「新城」の「新」はどこの城に対して「新しい」のかという自問に対して「長篠」と即答していましたが、なんか「怪しい」と思ったところです。
よく考えてみれば長篠城よりも近い場所に野田城があるではありませんか。
そもそも長篠城が全国的に有名になったのは長篠設楽原戦で、戦国時代を代表するかの如くの武将たちが集結し、名家武田の滅亡の始まりでもあるドラマの舞台装置であったが故でしたがもっと古くから野田城は今川・徳川・武田に翻弄される菅沼家の城でした。
新城城は菅沼家の城といってもいいため、むしろ野田城に対して・・・「新」と思うのが本筋でしょうね。
まぁどちらでもいいことですが・・・
今となっては野田城が「今・徳・武」の三家に取った取られたの現場になったという歴史は俄かには信じられないような場所ではありますが、この要害の城はどの勢力も手中に収めたがった城でした。
航空図参照いただければ一目瞭然、島状単立台地(木々が茂っています)にあって、北東(鬼門 うしとら)と南西(裏鬼門 ひつじさる)側に南側の大外堀とする大河、豊川に注ぐ河川(桑淵・龍淵)に挟まれています。
また現在は伊那街道に接続しているような台地は当時は谷になっていました。
前回ブログにて記しましたが、この城が全国的に有名になったきっかけは何といってもあのクロサワの「影武者」ですね。
火縄銃の命中精度の疑問、暗中模索、闇雲の発射による命中をそのまま信じるのは「オカシイ」とは言われましょうが、ロマンを感じます。
笛の音や舞の余興に戦闘はとりあえず棚に上げて両軍がそれを楽しむという話は高天神城にも伝わっていますし、これも映画の「のぼうの城」でもお馴染みで、その映画のお話はそのあたりからもってきているのでしょう。
その笛の音に聞きほれた「こっそり信玄単独鑑賞会」が催されたという場所がその裏鬼門側の川を隔てた小山の上にあります。
その地は野田城本丸の西の谷にある法性寺の境内にあります(場所はここ)。
ありそうでなさそうな微妙な距離感ではありますね。
画像②Sが信玄が居た場所といわれている場所。③は伊那街道側鬼門(北東)方向から見た野田城。④はその地点から伊那街道を見上げた図。
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