岐阜城信長の居館の発掘調査の進捗では金の瓦が出土したり信長好みの庭園の様子が復元されるなど着々と華々しい成果が報告されているよう(居館発掘調査HP)ですが、こちら諏訪原城からも少々渋めですが、面白い報告がありました。
前回の発掘調査の場所は縄張り図①でいえば最南端、旧東海道に接する場所で南側は台地の延長ですので殆ど高低差はありません。この城は東から北にかけては大井川が削った急斜面ではあるものの、南面は牧之原台地に接している場所。
どう「堅固な城」との評判があるにしろ、崖下から駆け上がって立ち向かおうと、無謀はしないもの。攻め方が考えることは共通で一番に取り掛かりやすい場所に「とりつく」というのが常識でしょう。
高天神城でいえば二の曲輪狙いでしたね。
というわけで守備方としてもそこのところは承知していて、この崖が終わって台地になる辺りに小粒ながら馬出を複数重ねるように設置していました。
諏訪原城ではそれを「重ね馬出」と呼び、南西方向の外堀の外の大手曲輪から規模の大きい「二の曲輪大手馬出」を設けてから3つの馬出を数えます画像②。
1. 本曲輪寄りに引っ込んだ「二の曲輪東内馬出」
2.「二の曲輪南馬出」
3.「二の曲輪東馬出」 です。
前年の発掘の説明会は2。
今年は3の「二の曲輪東馬出」になりました。
ロケーションとしては東の崖の先端のイメージで、景色は上記の通り。その日は富士山は見えませんでした。
ちなみに徳川勢が武田方を駆逐した際、城代に入れたのが今川氏真でした。家康も今川義元への恩義を一応果たそうとは努力していたようです。
氏真は武人より文化人の面が強調されていますが、やはりこの諏訪原城に入ってから和歌を詠んでいるようです。
「今川氏真詠草」より(島田市教育委員会資料)
1 大井川風立つらしも薄霧の 村々うつる瀬々の月影
2 色つかぬ梢の秋に時見えて 時雨を急く山の浮雲
3 見初めたる心地こそすれ中絶し 雲いに出るふしの白雪
それでは「二の曲輪東馬出」について
堀は図では三日月型になっていますが試掘では薬研堀が出現しています。堀の深さは曲輪側50度、旧東海道側55度と外側が少々キツめ。
たまたま試掘では曲輪側にて当時の作業性を向上させるためのテラス(階段)が確認されたとのこと⑧が手前⑨が左側少々オレンジがかった地層です。
尚、石ころがゴロゴロしているのが見えますがこれはこのあたり「牧ノ原礫層」の特徴です。⑧⑨とも切り込まれた「階段」は発掘作業の利便のために作られたものですのでお間違いにならないよう。
また薬医門らしき門の礎石が発見されています⑥⑦。
門の後ろには外堀がありますので木橋でも架けられていたのでしょうか。
門の礎石の大きさは他の場所で出土している礎石の中で最大級。50㎝×45㎝で主たる柱のベースを推測することができますが、あと二つの礎石は・・・というと探索したそうですが、この辺りは近年植樹が行われていますのでその際に「どうにかなっちゃったかも・・・」とのこと。
近くの堀際の樹木の下も探索のあとがみられました。石の間隔は画像のものと同様と考えると堀下。侵食した堀に落下している可能性もあります。
ちなみに他の二カ所の門といえば、「二の曲輪中馬出」から外堀の橋(木橋推測)を渡った「二の曲輪虎口」の薬医門。
こちらは整備が進む以前の「二の曲輪」は茶畑。礎石が出てきた辺りは古タイヤが積み上げられて土留めになっていたことが思い出されます。
平成22年にはデータが集められ(今は埋め戻されて簡易歩道のコンクリで覆われていますが)ずっと「復元するぞするぞ」噂が出てはいますが実現していません。
他の発掘調査の進行状況との兼ね合いがあるでしょうから、そういう工事は「最後の最後」でしょうね。
あと今一つ確認されているのが、礎石に宝篋印塔の石材を根固め材にしている「本曲輪虎口」の門でした。
そのようなより「重要個所」と思わせる場所の門の礎石よりも大きい礎石がこちらから出てきたのですが、それを単純に「大きい門だった」と推測していいのかはわかりませんが、それらに準ずる、重要な場所であったことは優に創造することができましょう。
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