真宗大谷派寺院御堂余間右(向かって左)に掛けられる御軸といえば七高僧。
ご存知、宗祖親鸞聖人の「ご指名」された阿弥陀浄土関わる7人の先達です。その中で本邦最初の高僧ということで第六祖にあげられる、源信僧都(恵心僧都)~横川の僧都モデルとしても著名です。特に幼少期の賢い子供「千菊丸」とその母の逸話についてはかつてブログでも記しました。
今年はその源信僧都の1000回忌の記念ということで、岡崎教務所(三河別院内)にて
『「往生要集」と地獄・極楽』というテーマで学習会が催されました。
「地獄」世界の第一人者といわれる小栗栖健治先生(宗教民俗学)を迎えての2時間30分の会。楽しい「地獄」を味合わせていただきました。
そもそも地獄よりも極楽(浄土)を強調しがちになる当流ですが、意外や真宗寺院にも地獄絵図というものが少なからず残っているそう。
拙寺にも源信筆といわれる阿弥陀如来図の方はありますが、往生要集のテーマでもあった地獄絵の方はありませんが。
先生が地獄絵図を所有している東西真宗寺院(近江)に訪れた際、「何故にして門徒寺に地獄絵?」と質問したそうです。
お西のお寺の住職は「生きざまを説くために」と。
また、お東の住職の方は「本音と建て前」と語ったそうです。
いかにも西らしさ東らしさの出ているような回答例で面白いものだと感心しましたが、お東の住職の云うおそらく「地獄は場所ではなく私どもの心の中である」(私のよく云うフレーズ・・・)という建前とは別に本音として「地獄は怖いもの、できることならそちらの方に「堕ちる」のは勘弁してもらいたい」というところ(厭離穢土・欣求浄土)が人間の内面にはあるということを言ったのでしょう。
往生要集は985年に完成し、その考え方は法然、親鸞、一遍等の浄土系僧侶たちに絶大な影響を与え、時代の変遷とともにその死後世界観は庶民に浸透していきますが、特にその勢いが増したのが16世紀以降だそうですね。
その16世紀というのが人々が自身の人生について考えるようになって姓名、家業、財産を継承するという「家」概念の成立があったという説からお話は展開されました。
画像②は三河西尾の永覺寺の「地獄絵」。阿鼻地獄は門がありますが、これを「阿鼻城」というようです。
私は城好きには違いありませんが、この「城」だけは訪れたくありませんね。間違ってでもこの城に足を踏み入れることは無いようにしなくてはなりません。それには我が心に問い続けることが必要なのだといいます。
永田町に屯する大概の横柄な連中はあの地獄に堕ちるということについては「まぁそんなもの」と思います。自業自得でしょう(地獄直行便の「火車」に載せられて・・・がお似合いです)。
後年になって「大坂」「逢阪」ならぬ「老坂」という人生スケジュールの考え方が地獄絵の中に採用されるようになったそうですが、私たち庶民はその坂をたんたんと自分らなりにそれも健やかに歩んで、ピークを迎えてからの下山はのんびりと利他と鷹揚に心を向けて歩を進め、その時を迎えらる時が来れば、知らぬうちに阿弥陀さんの差し出す蓮の上に乗せられているのではないでしょうか。
そうありたいところを願って生きています・・・南無阿弥陀仏
最後の画像2枚は久しぶりにお参りした教務所近くの祐傳寺の築山御前首塚。この五輪塔も惚れ惚れするようなスタイルです。
「無量寿」額は教務所隣、三河別院本堂に掛かっています。
★展示会
「往生要集と地獄・極楽展」の開催は
2016年3月3日(木)~8日(火)です。
会場 三河別院東別院会館2階展示場 9時30分~16時30分
期間中毎日12時30分から同会館1階仏間で地獄極楽絵の絵解きの会が催されるそうです。
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くりくり (火曜日, 23 2月 2016 23:17)
キリスト教でも、地獄だ、悪魔だ、魔女だ、異端だっていって
怖がらせて、ということがあるわけですが・・・
こういうのはなぜなのでしょうね
今井一光 (水曜日, 24 2月 2016 07:01)
ありがとうございます。
地獄の存在は、まず信心不在に対する宗派の懲罰的意義があると思いますが、
そもそもの人間の存在が仏教でいえば煩悩の塊のようなもの。
生活規範の修正のため、清く正しくの道義へ導くための教育的素材としての存在価値があったかと思います。
よって「怖がらせる」という意図もなきにしもあらず。
ただし平安期に起こって延々と続く歴史でもあることは事実です。
それらに子供たちは育てられてきて過去の日本人があったということです。