来年のNHK大河ドラマ「井伊直虎」を先取りしてこれまで井伊谷周辺を歩いてきました。
龍潭寺から少々離れた井伊谷交差点周辺、「城砦」に絞れば井伊谷城に根古屋の井伊屋敷(井伊城)がお手軽な散策コースでした。
下調べを十分にしていただければ拙ブログで記した井伊谷界隈をブラつくのに1日もあれば十分でしょう。効率よく回れば伊平城やふろんぼさま、佛坂古戦跡に向かうのも可能かと。
上記、城跡は紛らわしい(井伊谷城と呼んだり、居住区を井伊城と別けたり)のですが、これらは「一つの城」と考えるのが普通ですね。
また、三遠国境地帯、西遠州有力国人として名を馳せた井伊家の城としては「井伊谷城」はいかにも小さく感じます。
何よりもあの城では長期の籠城戦には耐えられないでしょうし、城に関して、特に畿内の山城に詳しい方からすれば「今一つ物足りない」(歩きが足りない)という方がいらっしゃるかと思います。
後醍醐天皇のメッセンジャーとして東国蜂起の南朝PRに参っていたその皇子の宗良親王を対室町幕府軍のエースとして匿って一緒に籠城したのがこちらの井伊家(道政?)。
井伊谷城内、本丸の一番高い場所に親王の鎮座したであろう御所丸なる曲輪がありました。
ただし井伊谷城は平時の城、さすがにこの城での本格籠城戦は無かったのでした。
ではどちらにといえば、それが「三岳城」。ブログでも時々「三岳山」の遠景を記しています。
井伊の「本城」と言わしめた、スケール的にも上記の城とは比較にならない大きさで本格的山城(標高467m 比高も400m以上)です(場所はここ こちらも)。
おそらく遠州の山城では屈指の大きさだと思います。
菊川の横地城も広大ですが比高が大したものではなく、街道筋から近く、お手軽感がありました。
やはりその広さが逆に守備力を分散させてデメリットになっていたような気がします。
方角としては先の井伊谷交差点を井伊谷城とは逆、東の方向になりますが、この山は龍潭寺方向からも視界に入っているくらい大きな山です。
龍潭寺近くの井戸から見た家屋越しに三岳山の頭が見えていました。
目標としては「三岳神社」でOKになりますが、井伊谷の交差点からの徒歩はささすがにやめた方がいいでしょう。神社真下の駐車場まで車で行くことをおすすめします。
三岳神社付近は城の三の丸で皇子の御殿があった場所で、こちらが水の手。ここを敵方に抑えられたら「おしまい」です。
三の丸の要害感はありません。
こちらからのキツめの登攀路、一の城(本丸)までの約500mと西に尾根伝いに延びる兎荷山(とつかやま)方向の連郭式曲輪段、各所の土塁らしき構造物、露出した石などにゆっくりと思いを馳せる余裕の山歩きなら三の丸まではせめて車で上がるのがベスト。何より体力がもちません。
ましてや「一の城」の枡形門の跡の分岐から東側に延びる「二の城」方向にも探索の気持ちを残していれば、のんびりハイキングという気持ちにはなれませんね。
しかし意外でしたが、何組かのご夫婦ハイカーとすれ違いました。皆さんは本丸からの景色を楽しんでお帰りになっているようでしたが。本丸からの景色は格別でした。
要は「有事の時の籠城専門の城」で、平時住環境からは距離があって不便このうえなかったでしょう。
この城は宗良親王と籠城したした際は室町幕府勢の圧倒的勢力によって落城。そののち(約170年後)、尾張守護の斯波系配下に入った際は駿河今川氏親の先方、掛川の朝比奈泰以(あさひな やすもち)に攻略されています。
思うに、山城の防御性に関しては「その大きさな関わらない]ということがよくわかります。
また井伊家はこのようにそれぞれの「時代」の主役級を相手にして、当然の如く敗北して辛酸を舐めさせられていることが推せますが、「城を枕に・・・」といった潔い結論を選択せず、「次の一手」を志向するが如く「逃亡」し、そののち攻め方へ従順に配下となって家を繋いでいくことなど、したたかに生き抜いた家系とも言うことができましょう。
その後も何度も危機を迎える井伊家ですが、家の消滅に関わるギリギリの苦肉の策として井伊家を引率するために現れたのが女城主「井伊直虎」でした。
帰り道に古い墓が目に入りましたのでパチリ。
最後の画像2枚が龍潭寺隣、井伊谷宮、宗良親王墓域前に昨年新調された看板。
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