最近、てっきり「ローカルニュース」だろうと思うような地元藤枝の交通事故がNHK全国版のニュースで取り上げられていました。
世にはブレーキとアクセルを間違えたであろう事故が頻発しています。
これは他人事とはいえない単純ミスであることは事実ですし、すでに社会に問題を提起している事案ですので、もういい加減に「何とかならないものか」と思うところです。
その事故の発生した場所は藤枝の駅前からそう離れた場所ではありませんでしたが、藤枝の駅前(南口)は今、見違えるほどキレイになっています。夕方ともなれば流行りのイルミネーションがキラキラです。さすが、静岡県では人口増加の優等生の街ですね。
ただし数年前にできた、映画館が併設されたビルは今や閑古鳥状態でテナントの出入りも激しく空きスペースが目立っています。見るも無残な状況です。
現在建設中のビルは果たしてどうなるのでしょうか。
静岡人は「熱しやすく冷めやすい」、時間が経てば歯牙にもかけないほどの冷たさを持ち合わせていますので。
藤枝駅南といえば人気の住宅地。3.11以来、「焼津よりは藤枝」という指向が主たる原因でしょうが、これは海から離れている割に平地が広がっているからです。
家康の城攻めは概して慎重。ゆっくりとじわじわです。
第一次の高天神戦の遅参による失敗もありましたが、第二次高天神戦の城攻め、長篠の後詰もそうですし、今川氏真の籠る掛川城攻めもそうでした。
特に目的の城への攻め方になった時は、周到に付け城を設けるなど包囲網を敷いて持久戦に持ち込む傾向です。
藤枝の城といえば田中城ですが、今川からこの城を切取った武田は一時は山県昌景が入っていたほどの駿河の重要拠点という位置づけがされていました。
当初の家康との約束では「大井川を境界」としていましたので国境の城ともいえるわけです。もっとも信玄はそんな約束は反故にしてさっさと大井川を超えて遠州深くまで侵入していますが。
田中城は平城なのに難攻不落振りを発揮したのは湿地帯にあったからです。持久戦となった場合の一番に気がかりな「水の手」を絶たれる心配はありませんし、まっ平らで障害物無しですから、攻め手の動きは一目瞭然、対応に後手を踏むことがありません。
まして、湿地帯ともなると進路は限定されて、怒涛の一気呵成の我攻めの選択肢は無くなります。
よってそのような城の攻略は、無駄攻めは最初から諦めて、兵糧入路を完全に絶って「ジワジワ」の神経戦に持ち込むのが最良の策。
兵糧を完璧に絶つことができれば堅い城門も自ずから開くことは明らかです。
田中城の場合、西からの攻め手としてはまずは大井川という大河を渡ることになりますが、そのあとの城攻めは難儀しましょう。
大外堀となる瀬戸川が城を囲むように行く手を阻みます。
ちなみに東側には朝比奈川が流れていますので、その両河川の作った扇状地の湿地帯は、高低差を利した要害性以上に、防御性が高かった城でしょう。
家康は大井川を渡って、この城を包囲するに藤枝最南の山といわれる本宮山にまず陣を置かせました。正泉寺の裏山にあたります(場所はここ)。
上記黄色い円内が本宮山。熊野権現を祀りますので元々は熊野山。現在はその「熊野山」が地元では正式名称。
境内案内板の通りこちらの本宮山と今一つ藤五郎山に酒井忠次に先陣させたとあります。彼は三河吉田城主にあってあの長篠城を囲んだ武田五砦への急襲を献策、実践した人でした。
この2つの砦を通称「二ツ山砦」といわれていますが、上記画像を見て紛らわしいのですが、その上の小山は別。
藤五郎山は今は開削されて消滅しているそうです。
熊野権現社⑥が。そのすぐ西側に平削された場所が。
晴れた日で条件が良ければ静岡空港がみえるそう⓼。
寺の裏の熊野山への入り口④の前で清掃中の正泉寺ご住職と遭遇。自分の固まったイメージで「熊野権現さんの山号ということでお寺のご本尊はひょっとして阿弥陀さん?」などとお伺いしたり(正解は釈迦如来でした・・・)少々歴史の話をすれば、「帰りに寄ってって・・・」と、とても気さくに。
図々しい私はもちろんお言葉に甘えて訪問。
立派な庫裏にご招待いただくというご縁をいただきました。
玄関入ってスグのケヤキ材の太い柱、相当大きなケヤキから削り出したことがわかります。耐震対策はバッチリの様、驚いたのは基本鉄筋でありながら内部は「木材」一色。
ふんだんに上質の木々を使用した、溜息の出るような美しい庫裏を拝見させていただきました。
ご住職の吉岡さんは書の先生で曹洞宗の墨蹟研究会と藤枝市の文化財保護審議会会長の仕事もされています。庫裏にて私の素性を明かしたところ、「新野左馬之助の神社は近く?」と仰るので、「案内させていただきますのでよろしかったら・・・」ということで別れ際に名刺を交換して失礼させていただきました。
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くりくり (日曜日, 07 2月 2016 21:44)
藤枝もそうですが小笠も袋井も
当時は皆湿地帯なのですね
今とはかなり景観がちがってたのでしょうね
それにしてもお顔がひろい
今井一光 (日曜日, 07 2月 2016 22:57)
ありがとうございます。
日本人の歴史は一言で稲作が入ってから
丘の上から平地に(高地→低地)に移動していったということでしょうか。
稲作水耕は低地で行うことがベストなのですが、低地は最大のリスクである
水害がありますので最初に降りた人たちは度胸が必要だったかも知れません。
実際に酷い目にあったり亡くなったりした危機の連発だったと思います。
よってその人々の歩みは水の管理、土木工事の歴史といえるかも知れません。
河川・雨水の氾濫を抑えることができさえすれば「大収穫」という果実が
得られるからですね。
またこの地区の太平洋岸の隆起もバカにはならないでしょう。
同時に海岸線が後退して湿地帯が消滅に力を貸したことでしょう。
今は水稲は廃れ、住宅地と工業団地と改変されてしまっていますが、
まだまだ小笠や袋井には原風景とも思えるような田んぼがありますね。
夏の田の青さと鼻をつく生の匂い、耳に入ってくる虫と鳥の声は癒されます。