あたらしい語を次々と社会に送り出し、最近では「嫌老社会」なる言葉で今の高齢者社会のあり方に問題提起している作家の五木寛之氏が珍しくテレビに登場してお話(「すべてを受け入れて生きる」)していました。
あの方は現在83歳。見た目大いに若さを感じます。イイ歳の重ね方をされている様。
ポイントは「養生」とのこと。
親鸞聖人の悪人正機を例によって引き合いに出していました。
そして、驚いたこと二つ。
1つは『青春の門』の9部から今年の秋頃より執筆予定と。
てっきりそちらの方は絶筆かと思っていました。あいにくと私は読んでいませんが・・・
2つめは、かなりの車好きだったそうですが60歳になったとき、きっぱり「ハンドルを捨てた」ということ。
「運転に違和感を感じた」のがきっかけだそうですが、自分に対してもかなり厳しい姿勢であることがわかります。
きっと私には無理でしょうね。
すでに違和感などはありますが、「まさか、大丈夫だろぉ」くらいの気持ちでハンドルを握っています。
五木氏は「何せ他人さまの生命にかかわることだから・・・」と仰っていた事を私の心に残しておきます。そのとき自分はそれを決断できるのか・・・
さて、愛知県は奥三河、新城から直線で、「地図上そうは遠さを感じない」場所であるものの、深い山を横断する道は不在、そちらに向かうには一旦豊川方面に出てから北上する以外は無いような未知なる場所へ。
その山を越えてみれば区分は岡崎市でした。
地名は「雨山」。
古い時代から増水による苦難があったことを想像できる地名ですが、ここの辺りで「雨山」といえば「雨山ダム」が有名?のようです。
「雨山」には雨山奥平家、元の姓は阿知波氏の阿知波城がありました。雨山奥平家は先に記した菅沼家と同様に分家多岐、奥平家七家のうちの一家です。
天正の頃、奥平配下として初めて「奥平」を名乗った奥平定直の父、阿知波定基(奥平貞昌の女婿)の築城といわれます(場所はここ)。
阿知波の語は字(あざ)地名に残っていて、今風にその城址の所在地を記せば「愛知県岡崎市雨山町字東アチワ」で、なぜかそこの部分がカタカナ。
いろいろお聞きしたい事がたくさんありますので地元の方探し。ところがすれ違う人はなかなか見当たらないわけです。
そういう時はいつも同様、適宜自宅訪問が手っ取り早い。
幸いに一見80歳を超えているだろうご夫婦がいらっしゃいましたので(私が聞きたい話は年配の方が一番)、その直前にもう少し離れた手前で聞いた、「城跡には墓石が出てきて並べられてある・・・」(又聞き らしい・・・)を話して伺うも、「もう時間が経ってしまってわからない」と。
しかし家屋の裏側を「城山」といい、「雨山城は?」と聞けば「阿知波城ね」と言い直されるところ、古い地元の呼び名は字名と同じ、後者の方が馴染んでいることがわかりました。
そこで「詳細がわかる方います?」とさらにお聞きすれば「お隣に聞いてみれば・・・ただし私よりずっと若い人だから行くだけ野暮よ」と。お茶目でお化粧の似合う奥様でした。
雑談で「お買い物はどちらまで?」と別の意味で私の疑問をぶつけましたが、「車で豊川市内まで」と。
「あの くねくねの山道を?」と聞き返せば、「まだまだ大丈夫、ここじゃあ車が無ければ生活ができない」とのことでした。
五木さんほか都会に住まわれる方々は免許証返納の選択はアリかも知れませんが、雨山の如く、ダムしかないような場所(失礼)では「何もできない」というのはまったくその通りですね。
それこそ、この解決というテーマも国の使命となるのですが・・・。なんでもかんでも「ババ」は秘書のせいにして自分は被害者面するをヨシと認める社会に、そこのところの解決を求めることは無理のような気がします。
戦国時代を俯瞰すればそういう人をこそ「卑怯者」と呼んでいましたね。配下の者は命に代えてでも助けるのが「よき上のもの」のあり方でした。
この地に赴いたのは先日記した「菅沼定則の墓探し」の際、「菅沼さん」に御教示いただいた・・・大洞山泉龍院「野田城主第二代 菅沼定村(さだすえ)」の墓です。
彼が討死した雨山の地に作られていた墓を後世になって、野田の縁者が台座のみ残して上部を持ちもどったということでした。
そうだとすれば、その元一所だった「台座」を目にしたいというのが心情。
いてもたってもいられなくなって豊川へ向かったのでした。
弘治二年(1556)に菅沼定村が攻略しようと攻めかけたのが阿知波城。最短距離とはいえ野田から険しい山越えのルートですね。道と言っても獣道程度でしょう。難渋が推せます。
当時のこの他の勢力図としては駿河今川と尾張織田との綱引き状態。そもそも辺境とはいえ今川の息のかかったこの地に入った阿知波氏の目的は織田方の橋頭保役という説がありますが、阿知波修理定直は今川を捨てて織田方に寝返りを表明。
そこで、今川は東三河を治める領主たちにその討伐を命じたというところです(「東三忩劇」―とうさんそうげき)。
野田の城主菅沼定村(さだすえ 菅沼定盈さだみつの父)は前線一番乗りの先駆けとなり、後詰を待たずに決戦をすべく雨山の阿知波城に張り付きます。
無理な我攻めで討ち取られていますが定村の弟の定貴(宇利城主)・定満も同様に討死していますので、野田方縁者の悲惨な状況は手に取るようにわかります。
後になって「墓石だけでも帰らせたい」という気持ちが起こるのも無理はないでしょう。
尚、阿知波城は後詰の今川勢に追い出されてしまいますが、この系統(雨山奥平家)もしっかり生き残り、このとき戦った菅沼家同様、長篠城攻防戦では徳川方として武田勢と戦っています。
昨日の画像、徳川方の長篠城に籠る奥平勢を囲む武田の五砦を急襲した酒井忠次配下の諸将の中に菅沼定盈・奥平定能の名が見られます。そして徳川配下に編入した両家とも存続し、多くの分家を輩出しています。
これで点と点が繋がってさっぱりとしました。
画像がダム手前、ダムに向かって左側斜面にあった菅沼定村の墓と元の墓の台座。上部が持ち去られたあとに当地で作った宝篋印塔ですね。
墓の上方の山に踏み入って探索を試みましたが、「遺構らしい何か」は見受けられませんでした。
ただ、起伏の激しい、傾斜地であることから、もし、この地に防御を厚くして柵と堅堀で固めていたら簡単には攻めきれないことは伝わってきます。
雨山合戦の石碑①②はダムを目指して手前右側を注意していればわかります。③はダムから見下ろした図ですが、その道路淵に建っています。
墓は⓼図、ダムの建物が見える辺りの電柱の左上あたり。
少々戻った場所に車が停められるスペースがあります。
他の墓碑は付近寄り道して目に付いたものです。それぞれ合掌して失礼させていただきました。
ダムの向こう側の道について前述の「おかあさん」に尋ねましたが、車では抜けられない道があるようです。
もちろん私は引き返して豊川に戻りました。
豊川市内側の山の上には開通間近の新東名が。
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