最近の母親の常套句は「忘れちゃった・・・」。
スペシャルにワンパターンの語で、日本全国いたるところで使われていることは、その都合のいイイ、それを発する当人としてはまさに「もってこい」の言葉だからです。
これは私の母親の場合だけでなく子供から大人まで本当に「便利」な語と思います。
その「魔法の言葉」の威力は凄いですね。
それまでのこちらからの問いやら、会話を一方的に遮断して「おしまい」にできますので。
大抵は相手が相手、恕のスタンスなら「ああ、そう・・・」でそれを呑み込んでから次の話題を探してもらえるというのが、そのお相手の作法でしょう。
そもそも私の方も「物忘れが激しい」年頃として、その言葉を重宝に使用させていただいておりますが(こちらは真に忘却か・・・)、最近では「物忘れ」は年のせいではなくて、「脳みその酸欠」だといわれているようです。
スマホやPCのやりすぎ、まともな呼吸法ができていない・・・いろいろと原因があるそうですが、私がそれ(忘れちゃった)を使用する場合、まず別の意もありますね。
それは会話の中での「時間稼ぎ的に間を取る」タイミングです。
要は自分のものとして本当の知識になっていないこと、勉強不足が起因しているといえばそれまでですが、のど元まで出てきているのが分かっていて、ハッキリ「口に出ないアレ」、ということはよくあります。
その意も含めてやはり私自身の「忘れる」=「バカ」なのかとつくづく思っている次第です。「忘れたじゃなくて知らない」ということもありますね。
最近二人の政治家というか政治屋さん?の「あっせん利得処罰法違反」やら「詐欺」的犯罪行為の指摘について、その語、「忘れちゃった」「記憶が曖昧」を聞いています。やはり都合よく駆使されているよう。
それが「世間様を納得させることができる」という発想でしたらそのお頭はアマリにもお寒いこと。
おカネをもらったり、だまし取ったりしたこと(過去の過ち)は人さまにバレたら都合悪いですね。精神的に嫌な事は忘れて歩を前に進めることは大切ですが・・・。
私も始末の悪い若き頃の過ちはもちろん、今であっても人さまに自信をもってお送り出来る身ではありませんので、「忘れたいこと」は山ほどあります。
しかし、彼らの責任と私のそれとは比較にならないほど違います。何故なら税金をもって給金としていないからですね。
私の不都合は檀家さんの不都合どまり。「みっともない」「体裁が悪い」程度。
国会議員の不都合は国民の不都合、国の不都合ですから・・・。「忘れちゃった」で済ますワケにはいきません。どう開き直るか見物させていただきましょう。
「忘れたのあとは・・・開き直り」コレ厚かましい人間の鉄則パターンです。
さて、私の<本当に>「忘れちゃった・記憶が曖昧」はブログのこともあります。
私は日々このつまらないブログを更新公開をしてはいるものの、
あまり人様に見られているということは意識していません。
ひとえに「私自身のため」だからでしょうか。
忘れやすい自分の「覚え」のようなものですし、最近では「ボケ防止」にいいのでは?・・・と思っています。
よって時に殴り書きで振り返って読めば無茶苦茶だったり文章になったいなかったり・・・結構あります。
息子であっても、流し読みあるいは飛ばし読み。「かったるくて読んじゃあいられねぇ!忙しいし・・・」と言いますし身近な友人の「奥の墓道」氏も「ざっと読み」だそう。
そして「週一の更新で全然OK。問題なしだろ?」と言われますが、今の私は上記の理由に「習慣」が重なってもはや一日数時間必ずPCに向かわなくては気が済まなくなってしまいました。
PCやりすぎで記憶力が飛ぶというのもウソではないかも知れません。
そんな中、このブログを「流して」でも目を通していただける方がいて、もしかして墓や城など史跡の情報を少しでも参考にしていただけるのでしたら大いに満足。有り難いことです。
今、私が「忘れちゃった・記憶が曖昧」はブログで「あの城やあの墓のこと」を果たしてアップしたことがあったかどうかですね。
先日もHDクラッシュによって画像が消えて一瞬涙目になりましたが、復旧した画像に目を通して、「これってどうだっけ」という画像ばかり目に付きました。
あの時は「ブログ1年分は消失」と記しましたが、特にメジャークラスでかつ私好みの城もいろいろあります。
まあ「支離滅裂」のブログであるとHPで言い訳しながらあっちこっちに飛びまくって収拾のつかないことになっていますので致し方ないでしょうが。
最近は「昨日、何を記した」かも忘れてしまいます。
その中でまさかあれほどの場所を、今まで一度もブログで触れていなかったのでは・・・と、半信半疑で過去ブログの城やアップした墓や碑を確認するのですが、やはりどこにも見当たらない城がありました。
浜松から新城経由で三河あるいは美濃岩村城や苗木城方面に向かうことがありますが、まずこのお城はトイレタイムの場所にあります。
幹線道路(伊那街道)沿いにあって無料駐車場、そしてトイレはスグ。本丸散策もおカネはかかりません。
近くに大きなの地元産品を扱う土産屋がありますが、こちらの方は人と車であふれていて面倒、私どもはいつもこちらを利用しています。あまりにもいつもの通りのお気軽な場所なのでした。
それが長篠城(場所はここ)です。
設楽原はじめここいらは始終うろうろしている場所なのにブログではお初だったようですね。
この城が歴史上有名になったのは天正三年(1575)、教科書では「長篠の戦い」と呼ばれた戦闘のきっかけとなった長篠城攻城戦からでしょう。
現在では「長篠設楽原の戦い」。また「長篠」を外して決戦場の名のみで「設楽原の戦い」と呼ぶのが今風です。
長篠城は先日記した菅沼氏(長篠菅沼)による築城ですが、三方原戦の甲州軍南下によって武田方に開城されたのち、(信玄の死による)甲州方撤収のどさくさに家康が切り取った城ですね。
武田方に人質を出して当地を治めていた奥平貞能・信昌親子を調略したものです。
家康からは長女の亀姫を差し出されて姻戚関係を結びますが、甲州に出していた奥平家の人質は勝頼の怒りに触れて処刑されています。
前年に高天神城を落として気を良くしている武田勝頼はプライドを保つためか怒りのままに一気呵成に長篠城を包囲します。籠城方の奥平信昌らはよく防戦し持ちこたえて家康・信長の連合軍を引き入れたというのがこの戦い。
誰でもこの城に行ってその要害性を思えないのは前述したように街道からスグの平城のイメージがするからです。というか絶対に「平城」です。私の近隣の諏訪原城以上にです。
要害性も諏訪原城の方が格段に上。
というのは新城方向へ向かう街道は城の北側で平地の様。
当時は堀と柵が施されていたとはいえいかにも脆弱な感じがします。ということでなぜあの高天神城が落ちて、長篠城が落ちなかったかというところが疑問に残るのでした。
もっとも長篠城の要害性は北側ではなく、二つの河川(今でいう「豊川と宇連川」(以前の「寒狭川と大野川」)の合流する「渡合(どあい)」、南側の崖がウリです。
攻め手としては北側からの攻略となるのが当然のことで断崖部分など無視するところ。勝頼が強硬に攻めかかれば落とせない城ではないでしょう。
となると、甘く見すぎて手をこまねいたか、息の根を止めずに憎しみを晴らそうとしたか、徳川織田を陽動して決戦を望んだのか・・・思いがめぐります。
武田勝頼が意図通り、連合軍をおびき出して決戦を所望するも逆にいいように術中にはまって滅亡のきっかけを作ってしまったのであれば、「甘さ・若さ」を指摘されても致し方ないでしょうね。
その日の長篠城は墓道氏と二人だけでした。
本丸には人っ子一人見えません。撮影には悪くないですね。
北側土塁と堀はキレイに遺っています。
向こう側に飯田線の線路が見えます。
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