先日帰郷していた「墓道氏」と某所にてある墓石をカメラに収めていると、近所の犬の散歩の方が「私の家の前には大木があって人はパワースポットと呼んでいる(だから見に来れば?)」と。
詳細うかがえば、私どもの趣向外の様子。先を急いでいたため、丁重にお断りしました。
最近耳にするその「パワースポット」。
そうカリカリして怒ものではありませんが、私にとっては意味不明の単語。いかにも現世利益的で、「何?」とドン引きの新語でもありました。
「スピリチャル」などという語も持て囃されていますがそっちはもっと嫌悪感。
要は都会生活に慣れ親しんだ者が喜びそうな自然界の景観や特異なカタチを言うようで、そもそもは古来からの信仰対象であったものが多いようです。
まぁ観光資源というヤツでそう名を変えて呼ぶセールス文句のようにもなっているようですね。逆にその語を発せられるほど私たちの「軽薄」さを醸し出しているものかと、がっかりさせられるところでもあります。
最近ではそのセールストークのように化したその語を耳にして「胡散臭さ」まで感じてしまうのは私だけでしょうか?
それらは、私から見れば「自然」そのもの。
何か気分のよさそうなモノをそこからいただいたとすれば、マイナスイオン・・・うまい空気でしょう。
それらは心の安定、癒しにもなりますし、都会の喧騒からはかけ離れて心身もろともにリフレッシュ、悪い筈が、あらしません。
古来より仏の教えが確立される以前はその「自然」への畏怖の心が人々の行動を戒め、制限していたのですから、今のその語の繁盛は、自然回帰という風にとれれば、まぁ悪いことではありませんね。自然回帰の動きといえば納得できます。
畏怖から芽生えた信仰(自然崇拝)は特にあとから仏教と結びついた山岳信仰、修験道というカタチで各地に伝承されています。
「山」へ特化した信仰がそれですが、特にまた「水源や巨石」等を崇拝する傾向がありますね。
昨日も井伊の井戸について記しましたが、水は生命の基本ですので最も尊重されるべき自然の恵み。
時折「井戸を埋めるので拝んでほしい」という相談を受けるくらいです。みなさん誰もが「井」には気を遣うもののよう。
ちなみに、私は「感謝する気持ちだけで坊さんは不要」と説明しています。
よって私はそのために出動したことはありません。
巨石というものはいろいろな説明がなされていますが、古来からデカい(人知を超えた)ものへの崇敬の対象で、特に祭祀場にされるなど神社等が併設されることが多いですね。
先日記した井戸発祥の「井」水源の井伊谷川上流には渭伊神社という「水」にかかわる社がありますがそちらには「天白磐座遺跡」があります(場所はここ)。
「いわくら」と呼びますが全国各地にその呼び名を見聞きしますね。地名では尾張のそれを思い出しますが、特に姓として「岩倉」を名乗る方が檀家さんにいらっしゃいます。元はその手の施設近くに住まわれたことを推測します。相良近隣の「イワクラ」といえば「茶」マークでお馴染みの粟ヶ岳の山頂ですね。
あそこの巨岩も見事でした。
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