しかし如何にも「信じるな!」では・・人レモン化

まず、驚いたのは軽油価格。昨日目にしたのは一気に86円。

凄い勢いで、これから値下げ合戦も始まるといいます。あの今も目に焼き付いた60円代が実現するのでしょうか。

新年早々悲嘆にくれたHDクラッシュの件、「復元コピーが出来た」という報せにより浜松方面に出向きました。

ひとえにあの「安心してください」のおかげです。

画像が600ギガバイト近くあって時間がかかりました(450万ファイル)。

すべて込みで44400円。勉強代です。それからバックアップ用の外付けHDを2台とし、こまめに更新するよう心掛ける事とします。

「生者必滅会者定離」を常々口にし、わかっているつもり、「私は大丈夫」がこのザマですからいかにも情けない。

とにかく一度失敗をしたからには次は同じ轍を踏むことはできません。機械(記憶装置)などもまた「信じるな!」です。

HDは当たり前の様にバンバンぶっ壊れるものだそうです。

PCも売れなくなったご時世HDは安くなっているそう、保険と思って買い足すことをおすすめします。

 

さて、標記「信じるな!」の連呼は如何にも坊さんとして、これまた情けない。

この「信じるな!」を人々の感覚として植え付けていくというのは本当はいいことではないですね。

昨日も記したように犯罪率低下現象の中、密室的犯罪の「オレオレ」が広がっていることから、お年寄りの防衛手段として必須の感覚であるのですが、社会全体に「それがすべて」という風が吹けば肌寒い人間関係というものに思い当たります。

 

昨日は人の寿命のベストな迎え方を「木の実が熟して落ちるが如し」から取ってきましたが、「リア王」からですね。まぁ日本語の訳にもよりますが。

蛇足ながら有名なこの語を頭から記すと

「人間、忍耐が肝腎、己の都合でこの世を去る訳にはいかない。こいつは出て来た時と同じ理屈さ。万事、木の実の熟して落ちるが如し」でした。

死にたくなるような絶望もあるがこと、それに関しては「そういうワケ」にはいかないのです。だから「その時まで進もう」の叱咤激励の言葉です。

 

私は「木の実」のフレーズは好きですね。

好みです。熟して自然に落ちる命は人生最期にして最高のご褒美でしょう。健康元気でポックリがイイといいますがまさにそれです。

仏道を歩むという意味で「採菓汲水」(さいかきっすい)と言う語を使う事があります。

仏のために果実を集め、仏花の世話することから転じて「仏道」と解しますね。また、仏の教えでは著名な御存知「因果応報」なる語にも「私の撒いた果実(種)」が因となるという言葉もあります。

木の実が人と人の作用に譬えられことはこのように散見されますが、私が思うに「コレもあるだろ」と思うのがレモン。

歴史的には戦後米国から入ってきたミカンの仲間で、日本の考え方ではありませんが。

 

これは一言で「逆選抜」ともいいます。経済世界で「レモン市場」というものです。そのレモンを人間に譬えてみれば、嫌な世の中になると思ったのです。

そもそも経済の方でレモンを人間に譬える考え方は在りません。もともとやはりレモンはじめ各市場に溢れる「商品」のことをいいます。

またアメリカでは「レモン=低品質」としてのスラングがあるようで、もともと「買ってみなくては分からない」「購入して初めて善し悪しがわかる」という意味で使われるようです。また廃棄処分のビーフカツが大手を振って流通している時代、大抵の品物の品質とはまずはそこそこの品質(低品質)であると考えてしまう指向です。

 

詳細は各お調べいただくとして(「レモン市場」)、この「人と人との間(人間)」をレモンにあてはめて考えたとすると・・・これはイケませんね。

「信じるな!」の常態化は人をレモン化してしまうということです。対する人間を、初めからロクでも無い人、とるに足らない人、ペテン師詐欺師の類、要は「低品質」であると捉えがちになり、社会にはその「低品質」が蔓延するということになりかねないということですね。

 

オレオレ詐欺に引っ掛かった方は皆「私は大丈夫」と思っていたそう。私たちは日々老化し、いつ何時「低品質」に足をすくわれるかわかりません。

親と離れて生活する子供たちは、そこのところ理解してしっかりと話し合ってください。

本当は日本の殆どの人たちの「品質」は最良なのです。

一部のはみ出し者の跋扈によってその言葉「信じるな!」を連発しなくてはならないのは辛いことです。

画像①は東名高速浜名湖サービスエリアの図。近くの三ヶ日産のレモンでしょう。

②は遠州豊田サービスエリア(上り)。こんなの見たこと無い。本線に入る直前でしょう、大型トレーラーのトレーラーが連結外れて脱落した図。有り得なさそうな事、結構意外に起こるもの。

恐ろしや恐ろしや、人間のやることは「信じるな!」。

私はまず私自身を信じていません。