今井こと(笠原こと)、笠原八郎左衛門二百回忌

昨日は「信じるな!」について、のらりくらりと記しました。

やはり物事を発信する立場の人間にとって、その意図が「虚偽の提示によって錯誤に陥れること」を目的としている以外、信じてもらえることは心より嬉しいものです。

ちなみになんらかの意図を持つ者は「信じ込ませる」ことに成功すれば「してやったり」のガッツポーズでしょう。

オレオレ詐欺とその変形の犯罪行為は人の善意に付け込んで「ありそうでない」(虚偽)ことを信じさせるものです。

 

よって、最近うまいこと語る人(上から下まで)はまずは「信じるな!」のスタンスでいれば「大火傷」は免れるかと思います。寂しい時代ですが、自己本位蔓延の世で、他者に一杯喰わせようと虎視眈々の輩が溢れかえっているから仕方がないことかもしれません。

 

そうは言っても私は真宗の坊さんですから、一向専念阿弥陀如来の「信心」についてはひたすら推奨する身であります。

それに対して「あなたの言っていることはウソばかり、信じられない」と評価されることがあったとしたら辛いことですね。

 

ただし、私は未だその手の苦言を直接くだされた経験はありませんが、その「信心」というものを他者に発芽していただく因というものがあるとしたら、皆さん異口同音に「その人そのもの」と仰るでしょう。

それはお付き合いを長く持って熟成されていくものですね。

本来一朝一夕でそれらを確立することは難しいものです。

特に下地、力量も自身不安な私としてはそのコミュニケーションは大事にしなくてはならないものとひとえに考えるところです。私にとってそれは歴史に名を遺した先達の姿を想像しながら、真似をしながらの個人的成長の目標です。

 

それら深い信頼関係にある「人と人の間」が、1本の電話のみによって容易く人を術中に納めてしまうテクニックがあるからには、ただただ受け手としては「信じるな!」を念頭に入れておくことが防御手段となるのかもしれません。

 

私がこちらでお世話になるようになってからたかだか10年弱。それは本格的に坊主と檀家さんとしてのお付き合いをしだしての期間でもあります。

その中で私が「嬉しいことだが喜べず辛くてお断りする」というお話があります。

昨日ある方が訪ねてきました。一昨日にも私の不在時に2度来られたということでした。それ以前から幾度も来られて度々相談を受けていますが・・・。

 

詳らかに記すことはできませんが、色々な理由が重なってその方は①今から死のうと思う②あとのことは頼む③財産はすべて寺に寄進する と仰います。

 

まるで何かのドラマのシチュエーションですが、当人は悩みに悩んだ末のことだと。ひとえに私を「信じてのこと」と切実に仰います。そのたびごとに私は声を枯らして①はありえないこと②は当然の事③は無理 ということを伝えています。

 

特に私の重点となる話題は①が中心は当然です。

命を生かす重大使命がそれぞれの人生にあり、「木の実が落ちるが如く」そのよう、それまで一所懸命に生きる義務があることを力を入れて話します。自然法爾、帰命-おまかせ、諦観などの語を交えてはいつものこと。

 

しかし御当人は既に覚悟ができている様子なのか、③のことばかり。私は②について昨日はお墓は見させていただくが「そんな葬儀は気が進みませんよ」とまで言ってしまいました。

③をお断りする理由は縁者が無ければ致し方無いかも知れませんがそうではありませんので。

 

そのような例はお寺であってもそうは無い事例でしょうが、信頼されていることに嬉しくもアリ、悲しくもアリ、何より早まった行動を起こしませんよう思いつつ、冷や冷やの毎日でもあります。

 

そのように寺というものは檀家さんからの「懇志」によって成り立っていますが、その中で「信頼」を頂いたことは何より坊さん冥利に尽きますね。

また年末から正月にかけて、多くの皆さんから色々なものを頂戴し、戴き物のみで食卓が飾られること度々ですね。この時節ますます拙僧の肥える頃につき、冬の山城行脚は欠かすことができないのです。

 

さて、画像は静波笠原家御寄進の御内佛です。

私は檀家さん各家廻って10年、これほどデカイ御内佛は見た事が無いと思っていましたが、笠原家本家が拙寺に寄進を申し出ました。親戚関係を昔から維持してきた寺ということが理由で、寺が続く限り維持していただきたいとのこと。

このほど、代替わりせずに継承を絶ち、御内佛を閉めることを決定したとのこと。

笠原家は各分家が広がっていますので、各分家がそれぞれ今の代よりスタートして欲しいとのことでの区切りだそうです。

 

実は以前から笠原家の御内佛の別のものが本堂の脇に設置されていましたが、これは拙寺九代目今井祐厳の娘のことさんが笠原家に持参したもので、その人の死去とともに拙寺に帰ってきたと伝わっていました。それを私が最後に見たのは高校三年の頃。

その後、新し物好きの十四代の父が寺に入ってから御内佛を新調した際に廃却してしまいました。勿論呆れ果てて父に文句を言ったことを覚えています。

 

笠原家では拙寺に返却した御内佛の代わりに新しい御内佛を購入したといわれていますが当時、定かではありませんが百両とか百五十両だったと笠原家に伝わっているようです。

このような豪華な仏具が揃えられた理由は、当時笠原家は当地で有数の大店。三河門徒発祥(近江門徒説あり)の当家は廻船問屋としてその地位を固めていました。

日坂法讃寺さんの石碑にも記されているように、日坂成瀬家とも縁戚関係を結んでいたことがわかります。

拙寺の成瀬家由来の太刀、「長船清光」(「徳川家臣団-子孫たちの証言」)が笠原家経由であることは優に推測できます。

 

本堂の右側余間は真宗ですと寺の住職累代の軸等が掛けられているスペースとなっていることが多いですが、この形態はちょっと他から見て違和感あるかも。

これまで鎮座していた「海の如来様」を右にズラして仏具屋さんが4人がかりで納めました。より一層キラキラになった御内陣です。④はスポットライト消した図。

脇掛けの九字十字が光背付きであること、他に見た事ありません。御内陣の荘厳の仕方に錯誤があるとブログアップによって御指摘を受けそうでもあり、こちらも少々冷や汗・・・

 

⑤⑥⑦は今年の回忌表と二百回忌の部分。

文化十四年1817年が没年となりますが、笠原家七代の笠原八郎左衛門(赤〇)と彼の奥さんで拙寺九代目今井祐厳の娘の今井こと(青〇)の名が見えます。

笠原家はこの年に二人の葬儀を出していました。

また、黄○はやはり九代目今井祐厳の息子、長吉ですね。

今井祐厳は天保十三年(1842)に79歳で亡くなっていますが1817年、この年は娘と息子二人を2か月の間に亡くしたということになります。

「木の実が落ちるが如く」は熟し切る前に落ちることも「中にはある」というのが人生です。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 14 1月 2016 09:33)

    いろいろな相談を受けるのは
    やっと寺として認められたということでしょう。
    これが本来の姿なんじゃないでしょうか。
    話を聞くだけでも相手はうれしいと思います。
    十分聞いてやってください。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 14 1月 2016 16:52)

    ありがとうございます。
    むしろ聞くことしかできない私です。
    勉強させていただいています。