毎度「憎まれ口」と思われるでしょうが、標記徒然草の一節は何とも真宗的。
私は「御縁」とか「縁(えにし)」という言葉はかなりお気に入りで、しょっちゅう使っていますが、真宗では皆さんが「法事」「法要」という機会も「機縁」とか「法縁」と言ったりします。「縁」という字がはいると何となくほんわかと優しい感じがします。
ただし「縁起」という語に関しては「由縁・由来」の意味での使用は問題なく許容できますが、縁起の「イイ・ワルイ」についての方、「吉凶の前兆」をこじつけて言う場合に於いては酷い違和感となってしまうのが真宗の坊さんたち。
別に他人さんのする、「ただのお遊び」と思っていれば全然OKなのですが、皆「吉凶なる言葉にさえ無関心であるべき」と教わっていますので特にこの「こじ付け」にはカチンとくる部分があるのでしょう。
「友引」の火葬場休みなんていうのも如何にも変ですね。
まぁそれが私に関わる一番面倒くさいくだらんこじつけ新風習です。
年配の真宗寺院諸先輩でその辺りの違和に怒る人もいらっしゃいますね。まぁ自分がそういうスタンスであればイイだけですが。何も知らない人にその作法について怒りまくり、宗旨作法を徹底させようとするのも私からすれば少々違和感を禁じ得ませんね。
そんな中、あの兼好さんがこう言ってたね。というとまた説得力のあるもの。標記です。
「物皆幻化」という語も仏教的。
「万物不変は無く一切が無常 」という意味です。
命あるものは必ず終わりがきて、物は老朽腐敗するという「決まり」があるのがこの世のこと。
そんな中、どなたが決めたか「日」のイイ・ワルイと「方角」のイイ・ワルイに振り回されている人間たちがいるのはいかにも不思議。
「吉凶は人によりて日によらず」はやはり当時の人々の心中「不安定」について兼好法師が「オカシイだろ!」と思ったということですね。
親鸞さんが亡くなったあと半世紀以上経た鎌倉末期の作といいますので、浄土的影響というものも感じます。
何事も「自分次第」、そんな「不安定」な感覚が他に責任を押し付けて利己的に生きることに繋がるのでしょう。
さて、一番にやりたかった拙寺本堂の追加の耐震工事が昨年末に完成しています。
クラックの入った柱への補助柱の設置は実はついでの工事。
ただしアレも揺れへの対応には「致命的」が予想されますので不可欠な工事でした。
この工事の目的は柱の無い部分、つまり、中央部真下、丸尾月嶂の襖絵上部の梁へ支柱を追加設置して、耐力をアップしようというものです。
真宗寺院の余間に、襖等の障壁を設けている例をあまり見かけませんが、たまたま当山本堂にはこの襖がありますので、その背後に構造物があったとしても何ら問題ないだろうということで落ち着きました。
当然本尊側御内陣から見れば見苦しいことになりましょうが、このようにブログアップでもしない限り、まったく知り得ない場所ですね。そもそもあの襖を開ける状況は99%無いといっていいからです。
当初は×印型に筋違を入れる予定でしたが、大工さん判断で「それまでする必要なし」ということになって、片方1本づつということになりました。
床下をぶち抜いて礎石から左右の中央近くの柱に向かって伸びています。その柱が四方に梁を伸ばしていますのでこの2本が本堂を支えていると言ってもいいくらいの中心となる柱ですね。
長さ的にここに嵌め込むにどうするかと思っていれば、2分割した柱で、見たこともないような接合の細工がしてありました。完成品はまるで一本の材のよう。勿論欅材です。
「物皆幻化」であるので「空しいことではないか!」と御指摘を受けましょうが、それとこれとは別の話。
限りがあるからこそ、その機縁を一所懸命に対応することが肝心です。
命も終わりがあるからこそその与えられた縁を「いっぱいに」対応(生きていく)するものですよね。
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