いかにもあの家康の大敗北と以降成功の教訓として生かしたという強烈インパクトある日本史上あまりにも有名な三方ケ原戦でしたがその裏番といってもいいのが「仏坂の戦い」ですね。
武田信玄本隊の進行とリンクしながら迂回して南下、三河長篠経由で遠州浜松を挟撃する山県昌景隊5000です。
天竜川東岸添いに南下する武田本隊が渡河して浜松を窺うタイミングに合わせて徳川軍の様子を見ながら展開する手はずの軍勢です。
挟み撃ちも良し、尾張方面への敗走を阻止するも良し武田軍の上々の手筋でした。
当時の井伊家はすでに徳川家康とは良好な関係で、井伊谷は浜松背後を守る橋頭保です。当然に山県はじめ懐柔工作は事前に行っているのでしょうが、対武田徹底抗戦は当然の帰結ですね。
佛坂とは旧鳳来寺街道。先日記した井平城の裏山という感じでしょうか。
この井平の地は井伊飛騨守直成という人が治めていたようですが彼含め井伊家でお馴染み(井伊谷三人衆)山吉田鈴木家の鈴木権蔵重俊が討死しています。
当然に当時は地元では有名人でしたでしょうから、文献にも名が残っていますが、戦場ですから、両軍とも死者は多数出している事は推測できます。
こちらの山道周辺は名もなき武者たちが入り乱れたということを考えると、より壮大な戦闘だった三方ケ原台地の現在の様子と比較して、ずっとこちらの方が古戦場の趣を残しています。
私が感じ入ったのは当地井平の文献に「出雲守(鈴木三郎大夫重時舎弟で井平城にいたという)家臣即ちその村住 野末甚左衛門 忠節を尽くせしなり」の一節を目にした時ですね。
この「野末」姓はあの井平城本丸址に現在建っている家に住む方の名と同じです。
「道理でな!」と勝手に手を打って納得した次第です。
さて、先日記した天保時代の道標の左側の道を行くと「ふろんぼさま」なる森の中に墓石が並ぶ場所があります(場所はここ)。
道標手前が①②の図です。
左の道を上って③に出くわしてから上がっても良し、そのまま舗装路の方を迂回してもそちらの墓に行き当たることができます。
「ふろんぼ」についての記述がありました。
「古墓(ふるぼ)」や「古坊」の転化説をとっているようですが、私はむしろ今では死語となっている「隠亡」に「古い」を付けて「古隠亡」(ふろんぼ)の方がピンときます・・・。
「隠亡」は「御坊」からともいいますので上記「古坊」には近いと思いますが、戦闘後この場所に遺体を集めて荼毘に付し、遺骨として管理していた人の存在が臭います。
上記鈴木権蔵重俊は弱冠22歳で討死とあります。
当時の元服は14、5歳ですので戦場の若死はそう珍しいことでは無かったはずですが、いつの時代も母親の悲しみというものは同じです。
子の死を耳にすれば、その場合余程の遠地でない限りまず、戦争が終息した段階で我が子が息絶えた地に赴き、その時の雄姿功名を聞きながら涙するものですね。
そして、その場所にて遺骨を集めて管理している「おんぼさん」に墓石建立の費用と今後の管理費、布施を渡し安心を得て去っていくものです。
ちなみにそれとは別に菩提寺に墓を建てるというのが一般的ですね。
よって「おんぼさん」はお墓の管理人であり、「お坊さん」でもあったかも知れません。当初はこの地に小さな庵など設けて墓守のようなことで生計を立てていた人がいたのでしょう。
それが時代の経過とともに特定の管理者も居なくなって「かつていた」・・・「古い」という形容がされるようになったのでしょう。
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