臨済宗相国寺の鹿苑院(金閣寺)には「蔭涼軒」(いんりょうけん)なる部署がありました。これは足利義満の代に幕府がバックアップすべき「禅」の寺(臨済・曹洞・律宗・・・)の行政と僧侶の登録や住持の任免など人事の統括のために「僧録」という職種を置いて鹿苑院に住まわせたことが始まりです。
そののち足利義持が新たに蔭涼軒という施設を置いてその留守居役としたのが軒主です。
蔭涼軒主は足利将軍家の仏事全般の取次等をも行います。
その蔭涼軒主の業務日誌のようなものが「蔭凉軒日録」でその役職に就いた代々の僧が寺院関係の記述という偏りはあるものの、政治・文芸などの記述もあって貴重な文献です。
いわば中央周辺の些末な事象が記されているということから「室町時代を散策」していれば時折目にすることがある語でもあります。
蔭涼軒主歴代の日記に尾張小口城を築城した織田広近の記述があるそうです。足利本家に次ぐ有力守護家の土岐頼貞などはやはり禅宗に深く帰依して美濃国内に数々の寺院を開基しますが、そのうちの一つ、龍門寺の土地問題で蔭涼軒主の依頼で顔を出しているとあります。
他にも足利義政への謁見の推測(別資料)の存在からして織田家が二家に分立しているとはいえ、この織田広近という人の政治力の手腕と活動域の広さというものを感じます。
また、次男?の「武衛」こと織田寛近(おだとおちか)=津田武永は
小口の城を継いでいますが、父広近を讃える言葉を残しています。そちらから広近を想像してみれば・・・かなり「クール」な一面を感じます。
「心の内は達観し、すぐれた才気は生まれつきのもの。
仁愛は春の日差しのようである。その容姿には強固な意思が見え、ある時は心静かに尺八を吹き、ある時は名剣を手入れして猛牛を斬る。
袈裟を着て大弓をひき、出家しているのにもかかわらず戦場に出ることを恥とはおもいつつも鎧をまとい、武家の者としてそれを継ぎながら、大切なる師匠と親しく念仏をそらんじる」・・・
隠居したのちの織田広近は「万好軒」という庵を小口に建てて余生を送ったと言いますが、この命名「○○軒」は足利幕府の設けた「蔭涼軒」をイメージしたのかと。
ちなみに今から一昔前、「家系」なるブームの来る前の「○○軒」と言えば決して寺のイメージでなどはなく「ラーメン屋」さんでしたね。
織田広近の「万好軒」は現在の吉祥山妙徳寺(場所はここ)。
小口城からは徒歩でも十分です。お墓もあります。
ただし、案内板は在りませんから墓地を探すのみ。と言ってもそういう場合は「一番古そうな墓」をあてずっぽうに探すのですが、何故か「古い!」と思わせる墓石は一基のみでした。
こういう場合は塔身が卵形の無縫塔はパスしながらもそれらの並びの近くを探すことが肝心です。
歴代住持に囲まれている様子はその後代、お寺としての代々が下って行ったことが想像できます。
よってこちらの一番古そうでただ一つしかない宝篋印塔がビンゴ!!。
ただし、墓石ジョイント部分のセメントが気になります。
そして、こちらの墓石は当初からのものでないことは確実です。
周辺に数基の五輪塔が建っていますが古さではこちらの方も引けを取りませんので、準主役級。単独で設置してあげればもっといいですね。
宝篋印塔は一言で言い表せば数種類のパーツを組み合わせた石塔ですね。
ともに相輪部分が欠落した大小二つの宝塔を重ねたような感じです。その両方とも塔身の石の材質が明らかに異なって見えます。まぁ500年も前のもの、ここでお会いできるだけ稀有な御縁と、「なまんだぶ」。
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小山昭治 (水曜日, 16 12月 2015 10:56)
こんな直し方をするんですね。
セメント部分を見れば素人が工事をしたように見えます。
私でもできる。
しかし 転がっている方がいいのか、直しておいた方がいいのか。
考えさせられます。
今井一光 (水曜日, 16 12月 2015 21:01)
ありがとうございます。
おそらくお寺の継承者等代表者が、伝わっている石塔をあったままに修復したのかと思います。その後の争乱や災害、そして経年による劣化、境内地改編等によって破損したり各パーツがバラバラになったりしますが、何も記されていない石を元通りに組み合わせることは難しかったでしょう。ただし、石塔工作時セメントという接着剤はありませんので、石と石の接続は合わせに凹凸を付けるなど石工の特殊技能発揮の出番がありました。
劣化によって接合が不可となった可能性がありますが、本来はセメントなどを使用せずとも確りと立ちそこに座するものではあります。
バラバラになったら元に戻して再び立たせてあげたいと思うのは心情的に頷けますが、オリジナルを造ると後世にずっとそれが伝わってややこしいことになりますね。
私も新しい事を模索していますが、歴史や習俗が変わるまでの変更には注意しなくてはならないと思っています。