「浄土宗寺院において最古級の仏堂」(こけら葺・入母屋造 棟札は文明十年1478)と評価の高い信光明寺と岩津城について記しました(御堂の画像はそちらの④)。
私の自分のイメージで北条早雲の件を「信じられない」風のことを記しましたが今川氏親が明応五年(1496)の志戸呂攻めの10年後の永正三年(1506)~五年に東三河から西三河に執拗に攻め込んでいるようで、その主たるターゲットだった今橋城の牧野古白は討死しています。今橋の古白の敵方が誰だったかというのも諸説あるようですがまぁ今川氏親と考えるのが定説のよう。
そこでよく考えれば今川氏親のバックというか軍師で名代といえば伊勢宗瑞(北条早雲)に決まっていますので、彼が三河に攻め入り、岩津城下を焼き払ったというのはあり得ることですので私のブログもかなり適当だと今更感じています。
歴史家の通説は何しろ「北条早雲がここまで来た」ということですし。
先のブログで記した信光明寺の看板の画像の記述「文亀年間(1501年から1503年)に伊勢新九郎(北条早雲)統いる甲州敗軍が当寺に乱入し寺中に放火」という記述に目を奪われて、「そんなバカな」的に殴り書きしてしまいました。
まぁその程度のブログと解して適当におつきあいいただければますます有り難い限りというものです。
それ以来、失念して何ら追記していなかったのですが、信光明寺には松平家(岩津松平)の墓があります。
前回こちらのお寺も松平家の菩提寺であることを記しましたが
信光明寺は大樹寺より早い時期の元菩提寺で、私の趣味的なものですが墓地の醸し出す空気は最高です。
こちらは三代信光が父と祖父の菩提を弔うために建てた寺で松平氏の初代松平親氏、二代泰親、三代信光自身御三名の宝篋印塔が土塀で区切られた墓域の中に佇んでいます。
戦国期において「城」はじめ城下は取り合うイメージですが、信光の父親(系譜は微妙のようです)の泰親は先代親氏以来の財力知力をもって(国人領主の有徳人)信光と松平郷からこちらを本拠に進出したのです。信光はその財力によって当初は土地を買い取って増やし、力を付けて行ったとのこと。
コレが徳川家の始まりの始まりです。
鬱蒼とした樹木の中の墓地にそれとわかる区画が窺えます。
崩れかけた土塀の醸し出す雰囲気は何とも言えません。
夏は蚊の襲来が相当の苦痛となりますから、この墓地と城址の散策は冬場がいいですね。
渋くてイイ味が出ている墓域で、私の好きな墓地の一つです。
その墓域の中で私の一番の着眼墓石は塀で囲まれた松平家三代の塀の外右側に結構目立ってある宝篋印塔です。
近代になって改修されたものでしょうが確りとした石組の上にあります。おそらく前代の礎石石組が崩れて作り直されたものでしょう。
その墓は成瀬氏三代の成瀬政直の墓だといいます。
成瀬家は松平家初代の氏親より松平家家臣団として追随していますが、松平信光が岩津城から本拠を安祥城に移る際、安祥城で討死したと言われます⑨⑩。
⑪は不明の五輪塔。こちらはどこかの時点で水輪を増やしたというかバラバラのものをつぎはぎしたのか不明。本来のカタチではありません。
最後の2枚が大樹寺のもの。
松平信光のカットと岩津松平家の供養塔群の墓域です。
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