最近の世間話やらテレビの特集の記事といえば「夢」というもののない切実な話題が多いような。
老老介護・老老看護・認認介護(認知症の夫と妻)そして「下流老人」(朝日新書)に介護施設の不足、子供の貧困、人口減少等々。
どうやって我々がこれより先を過ごしていこうものか見出すことができぬまったく不安で不案内な社会の実情だということがわかってきました。
健康寿命を維持して一応は健康にケアした生活を送っていたとしても人間というものは寿命がありますので、所詮「人生最後の約10年は不健康である」と言われているように(詳しくしるせば男性で70.4歳の時点から9.1年、女性で73.6歳の時点から12.7年とのデータ)統計からすればまず、歳を重ねての病魔は避けられないよう。
『下流老人』では高齢者が貧困に陥る五つのパターンをあげています。
何と言っても①番は病気(または事故)による高額医療費。その発生が以降の人生を狂わしているようです。そして・・・
②介護施設に入居できない(金銭的問題、条件の問題、物理的に施設の有無の問題)。
③子供の就労が不安定で親の財産と年金に頼る傾向(勿論結婚しない)。
④熟年離婚で頼る相手もいない。⑤認知症 だそうです。
①の病気と⑤の認知症は「疾病」のくくりで、並べて見ればこの二つの事案はやはり、日々の健康寿命の意識を高めて、食生活と運動を少しでも心掛けて生活することによって「健康時代の終焉」を遅らせることができると思います。
健康年齢をいっぱいまで伸ばすことができれば、寿命はほとんど決まっていますので、自ずから不健康な状態は少なくなるだろうという算段です。
つまるところ健康でさえいられれば出費は減らせるのです。
人の手を介せず我が身の周辺のことさえできていればある程度の問題は軽減できるはずです。
まぁその「病」から逃げられないという事実は釈迦以来の問題なのですが、ひたすらその発生を遅らせることができれば現実は違ってきますし、ありがたいものです。
難題であることはわかっていますが・・・。
もう「そのときは、そのとき・・・」などと悠長な事を言っている場合ではないレベルかもしれません。
昔は「トコロ天」と言って順次「自分の歩む道」に進むだけという達観がありましたが、今のあり様を見て「我が身も続く道」と決めてしまうのはちょっと違和感アリアリです。
「せめて健康」を合言葉にしていきたいのですが・・・
そして、最近の「人がいない」(人口減少)日本は介護者不在となって、受けたい支援介護が「受けられない」ことに繋がっているのですが、この「人がいない」が一方地方のコミュニティの崩壊に至っていることは周知ですね。
このコミュニティというものを私ども寺院世界で一言で言えば「檀家さん」と寺の関係とも言いかえる事ができます。
標記「お寺の衰退 は 地方の衰退の写し鏡」は、イギリスの大手一般新聞のガーディアン紙が表現したそうですが、それを引き合いに使用した別の記事を拝見しました。
そのタイトルの一部に「急速に進む仏教離れ、消えゆく寺院に海外から惜しむ声」とありました。
この手の記事に坊さんとして私が目を向けないワケがありませんが、内容はだいたいいつもの通り、数字をあげてその切実感を強調するものでした。
その挙げられていた数値というものを記せば・・・
「少子高齢化、後継者不足などのため、現在約7万7000ある寺院のうち、25年以内に約4割2万7000ヶ所が閉鎖されると予想」「既に日本の2万以上の寺院が住職のいない空き寺」とのこと。
記事では寺の維持ができるかできないかの境界が檀家数の「200」家を示唆していましたが、それはお寺さんによっては厳しい数字かも知れません。10件20件と100件未満というお寺は、またぞろあります。
果たして今から25年後とは私がこの世にあるかどうかわからないほどのちょっとした未来で、その時をこの目で確認するということも叶わないことかもしれませんが、「子供に託す」とは言いながらも不安が残ります。
昨日も東京から地方への移住についてとりあげた番組がありましたが今後市町村自治体間で「移住者」の取り合いが始まるかも知れません。東京から、他の地方から居住者を取り合うのです。携帯電話屋さんのそれと似て、色々景品特約をつけて来てもらうというものです。どちらにしろ財源が必要ですが・・・
ざっと見て静岡へ来られる人は出て行く人より少ないのが現状、これだけ素晴らしい自然環境にもかかわらず住環境を最大魅力として訴求できないのはやはり静岡のど真ん中にある原発のせいでしょうかね。あそこに在る限り関東地方もこことさほど変わりませんでしょうが。遠州の主な空っ風は西から東ですからね。25年後がどうなっているかわかりませんが、原発稼働があって「人がいない」ではシャレにもなりません。
前述新聞誌上の紹介記述には「若い女性を中心とした地方離れが今のペースで進めば、2040年までに日本の地方自治体の半数近くが消滅する」とも。
要は「人がいない」は住み心地が悪いということで、何事も「人々の集合」こそが社会の成り立ちの基本、この国は「人に優しい国」では無いということでしょうか。
ただしその記事を見ての一番の疑問は・・・葬儀費の記述の件。
「寺の大きな収入源は1回何百万円ともされる葬儀代」とありましたがそれは拙寺あたりから言わせていただければ「相当言いすぎ」の部類。
それをベースに計算すれば寺生存の分岐点、檀家総数200などには及ぶ必要はなくてイイと思った次第です。
画像は昨日「小春日和」の午前。温かい!!
メタセコイア、イチョウ、楓は色づくもブーゲンはまだ花を咲かせようとしています。
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小山昭治 (木曜日, 10 12月 2015 09:06)
除昼の鐘に大勢参加してくれるといいですね。
写真で見るとどこかの京都の寺のようでいい景色です。
先のことを考えるのは苦手です。
明日の命もわからないのに将来はもっと不確実。
凡人は今日を、今を一所懸命に生きるのみ。
その挙句が店の塗装、屋根の補修で費用が掛かります。
屋根などは傷む前に塗装だけでもすればよかったと後悔はしますが
先の読みが足りない。しょうもない性格です。
今井一光 (木曜日, 10 12月 2015 21:00)
ありがとうございます。
「鐘撞き会」是非ご参加ください。お待ちしております。
最近は殊に余計な事ばかり考えて、どうのこうのとつまらぬ思案をしては
人様の目に何か晒している日々を送っています。
時間が豊富にあるということでしょう・・・。
そう錯覚して、悲しいかなやるべきことがなされないというのが私です。
寺に住む(いる)ことが職とはよくいったものです。
昔の事ばかり考えていると、人間の行先(未来)も同時に考えてしまうもので、将来の予測というかヒントがその過去のならい(歴史)から思い浮かんできます。
そこで将来の事は「おまかせ」とはいえあれやこれと考えては「おそろしや」と
頭を悩ましています。
塗装と補修の出費は頭が痛いことですね。
私は以前会社勤めで社宅の施設管理の仕事をしていたことがありますが、塗装工は足場含めてかなりの金額に上ることは優に想像できます。
そのように考えてもしていないようなマイナス要因の発生が特に「おそろしい」ものです。