「墓」というものはだいたいは故人の「形見」が納められるというのがそのカタチ。それはまず第一に「遺骨」ですね。
現代においてはそれは当然のならい。
そこで故人についての思いが色々な理由によって複数に及べば「分骨」等の形見分けが行われて色々な場所に墓が建つのです。
遺骨がなければ遺髪がその次にあげられますが、鎧、兜、太刀などから様々な故人愛用品が納められて墓が建つことになります。
そして墓がいくら何でもあり過ぎだろうと思わせるのは、その菩提寺の責任に於いて行う追慕の礼拝の対象としての建碑です。
拙寺にも外洋諸島での戦没者単体の墓が数基ありますが、その中ときたら、あとから親族が現地に赴いて拾ってきた石ころか、戦友がその地から持ち帰った砂石です。
中には古い時代にもかかわらず権威づけ?と思わせるような無関係と思わざるを得ない突飛な墓石に突き当たる事がありますが、これはどなたかの「思い」がカタチとして現されて、時間が経過することによって墓の由縁についての後講釈が出来上がってその正当性を主張していくのでしょう。
墓碑が建碑された地こそがその人の死した場所を思わせるものですが、戦乱の地に赴いて亡くなった場合など故郷「一所懸命の地」には何一つ「帰還」するものは無いというのが実情です。
亡くなった場所の推定地は勿論、本家、妻子、そして寄進者(有徳人)として顔役だった寺などがそれぞれの思いで墓を建てるので古来より一人の人間に対して複数の墓があるものです。
まして処刑されるなど首と胴が分かれれば埋葬の時期と場所が違ってきますのでそれだけで2つ以上の墓ができるのは確実ですね。またどこのどちらさんが墓を造るのも勝手ですからね。
信長など崇敬者の多い人など、やたらに墓が建ったのでしょう。
特にまた代々累代の墓地ともなると一通り揃っていないとなればうまくない。そういうことでどこかにある墓を持って来たり、分骨したり、しなかったり(遺骨の有無はどうでもイイ)、経典だけ読誦で移動したりして「石」が増えていきます。
神道でいう「勧請」「分祠」「分社」「今宮」の個人版のようなものでしょう。
そういう意味で昨日に記した龍潭寺井伊家累代の五輪塔に関しては、寄せ集めたあとどこかの時点で新しく改編したものでしょう。
そのことの良し悪しを言うのではなく、お墓にはそういうものもあるということです。
同じ石質にあっても当たり外れがあって風化が著しく早いものもあったりしますし・・・。
だいたい年代の差がある中、墓地のすべてが同じ形、同じ大きさであることは稀というか「有る事なし」です。
石工職人も変わっていきますし、施主の考え方も変化しますからね。
さて、こちらのお寺の凄いところは井伊家のみならず、井伊家家臣団として井伊家のために尽した武将の墓までも管理しているところです。さすがにこちらの墓地をうろついている方はそうはいらっしゃいませんが、お隣の井伊家の墓の人気を尻目にずっとたくさんのそしてより古そうな墓石たちに囲まれて独占の満足を得ることができましょう。
勿論、井伊家第一の殊勲者といえば思い浮かぶは新野左馬之助。
彼の墓も勿論こちらにあります。浜岡の新野、地元の墓は五輪塔ですが崩壊残欠状態でした。こちらのものは歴とした宝篋印塔で小さいながらも石垣で組まれた墓域に凛々しく建っています。
③は龍潭寺からさほど遠くない井伊谷の主たる通り。
④井伊家の直虎周辺の系図は分かりやすくてありがたい。
左側に頭陀寺の松下との関係が記されています(新野左馬之助顕彰会作成)。
⑤⑥は浜岡町企画商工課のパンフレット。気合いが見えてきました。
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