義父暴力で松下之綱(頭陀寺城) の元へ   藤吉郎

浜松はラッキーな町です。

「出世大名・・・」のフレーズが出回っていますがそういう意味ではまったく岡崎の方のイメージが強いですから。そして最近の浜松の幸運度には目を見張ります。

そもそも今でいう政令指定都市「浜松」などいいますが、地名をクローズアップしたのは家康が来てからですね。それまでの曳馬(引馬)という地名をやめて、城の名を「浜松」としてからですから。

出世したのは岡崎の松平家(徳川家康)でもありましたが、浜松はそれを超えて大いにうまいこと「出世」しました。

 

ましてその家康が来る時代の(家康番外)あの地区の国人「井伊家」に大河ドラマのご指名が入ったというのですから。

家康一本狙いで岡崎市・静岡市と三市で組んで「徳川家康」の放映をNHKへ陳情に上っていたようなフシがある中、降って湧いた単独浜松ネタ(場所は浜松市北区引佐町井伊谷)でした。

 

これほどの棚ボタは無いですね。誰もが唖然としました。

特に遠州の歴史好きは小躍りしてはしゃぎたくなるほどの嬉しさがあったでしょう(ブログ←こちらの画像のブーゲンは今も境内で咲いています)。

そのおこぼれを頂戴することが確実となって俄かにその墓場の掃除整備に入ったのがブログでも記している御前崎の新野左馬之助でした。

 

なるほどドラマとしては①戦国時代②女が主役という大河成功の秘訣?を踏襲し、高視聴率を期待しているのは見え見えの方向性で、ある方面からは「パターン化していてつまらない」などその採用について批判的な評価がされているようですが、ドラマとしてのそれを無視して考えれば、この「井伊直虎」の周辺は国人割拠の戦国史であり、その歴史に触れるには絶好の材料と思います。あの時代の西遠州はといえば、遠州忩劇(そうげき)といわれる大混乱の真っ只中ですね。

 

戦国時代のあまり著名ではなかった国人衆の登場となりますが、そうとはいえ彼らは桶狭間後の今川、徳川、武田の強大勢力の中で翻弄されて繁栄・逃亡・滅亡というそれぞれの「家」の浮沈をまさにドラマチックに演じた時代であって、単純なドラマとして見ても面白くないワケがないのです。

守護大名から戦国大名化した超強大の御屋形様、今川義元がひょんなことからコロッと亡くなったこと(桶狭間)からがこの遠州忩劇のスタートです。

カリスマ支配者義元亡き後、後継した氏真率いる今川家の没落は家康の寝返りがそのスタートといえばそうでしょうが、氏真差配の失策(無能力?)の数々がこの忩劇の火に油を注いだことは歴史上明らかですね。

 

また、歴史から見て地頭―国人―戦国大名化の実像と進化のステップがよくわかるお手本のような「現場」を垣間見れるかと思います。

 

若くて短慮な今川氏真に始まって(かわいそうですが、「アホな悪役」の立ち回りになるでしょう)その領地を切り取ろうと策を廻らす家康や信玄が台頭してくるという流れですので登場人物は演出次第では申し分ないでしょう。

前述しました通り、ストーリーは「桶狭間」から始まるというのがまずは予想されるところですので、登場人物も察するところ。

井伊直虎の苦難の始まりというものは彼女の父、井伊直盛が今川義元の尾張侵攻先鋒役を担って桶狭間で討死したことからでした。

 

さて、この遠州忩劇には意外な登場人物が「配役」されていてこれも歴史の妙。先日も記しましたよう「井伊直虎」劇中エピソードとして登場させるでしょうね。

それが「藤吉郎」ですね。頭陀寺松下家に奉公出仕し、木下藤吉郎を名のったあの男です。

 

松下加兵衛之綱が藤吉郎の元服式の烏帽子親となったといいます(実はその父親の松下長則であることが通説~之綱と藤吉郎は同年齢のため)。

百姓家生れの小僧、藤吉郎が尾張から西遠に流れて来た松下家奉公人の中では出世した方だったのでしょうね。

 

尾張から出世を夢見て西遠の松下家までやってきたのも藤吉郎義理父の家庭内暴力からの逃避だといいます。

もし仲のいい家庭環境があれば、天下など縁も所縁もない生涯百姓としての生活のみ、歴史の表舞台に出る事も無かったのでしょう。人間どう転ぶかわかりませんね。

 

どういうタイミングで藤吉郎が松下家に見切りをつけて織田信長のもとに走ったかはわかりませんが当時の状況を目の当たりにすればかなりの潮時だったことはわかります。

 

松下家は曳馬(引馬)城の飯尾氏の寄子、飯尾連龍(またはこちら)は今川家臣ですので、大きい意味では松下家は今川家臣団の一画ですが、今川御屋形からすれば「陪臣」(=「また家来」)であって拝謁すら困難な身分。

 

そのまた「陪臣」という藤吉郎であって特に「身分」に厳しい今川家臣団にあってその「夢見る出世躍進」などは期待できる筈もありません。

そこへ来て今川家崩壊の序章「遠州忩劇」の始まりです。

寄親の飯尾連龍が今川に反旗を翻したことから頭陀寺城は今川勢に陥落させられたといいますね。

それが証拠に発掘調査では現在地80㎝地下からは焼土が出てきています。

 

しかし松下家も棚ボタ的幸運に恵まれた家系でもあります。

何とか忩劇から生き残れた松下之綱は家康配下となり、高天神城(対武田戦)に入っていますが、同時進行で織田方に入ってトントン拍子で城持ち大名(長浜)にまで出世した藤吉郎―秀吉にその家臣として招聘されています。

 

この辺りの主君―家臣の逆転劇もそうですが、松下加兵衛之綱がその一見屈辱的ともいえる状況にスンナリと応じて秀吉の下で「一所懸命」の働きをすることも素晴らしい頭の切り替えだと思います。

 

そう思うと、「秀頼天下」以外の発想が無く、豊臣家を滅亡に追い込んでしまった淀さんの狭量さはイケませんでした。

そして何より、何処の馬の骨かも知らぬ者が現われた(藤吉郎)としても「親身になって」扱えばもしかするとその者が大出世してゆくゆく自分の身を救うことになるかも知れないという「奇跡」もあり得るということです。

 

松下姓は遠州には多くあって、当相良周辺にもかなりいらっしゃいます。松下之綱は二人の男子、長男暁綱と次男重綱に恵まれますが家督本家は次男重綱の方(のち久野城に―またはこちら)。長男暁綱は地元に残って庄屋となったと言われます。

今川勢に焼かれた屋敷を修復再建して地元の土地と墓を守っています。

 

頭陀寺に残った松下家の累代の墓は浜松市中区の西伝寺(場所はここ)にあります。

⑦の板碑状墓碑が暁綱の墓。墓碑に「城屋敷」の文言が。ちなみに法名が「正心院殿定誉暁安居士」で寛永十年七十歳病没。並べられた奥さんのそれは「至誠院心誉壽清大師」。五輪塔系(宝篋印塔の豪奢な隅飾り部分も混成しています)は子孫の墓とのこと。

ちなみに五輪塔の古さの目安で「おだんご」=水輪のカタチがありますが、時代が新しいとすわりが良くなります。円球から扁平と変化していきます。一見古そうですが江戸期にはいったものと判断する由縁となります。