私の愛用頭陀袋はかなり前に幼稚園児専門ショップで買った綿製のものでした。
頭陀<Dhūta>とはサンスクリットの「捨てて施す」(布施)で、僧から求めれば「乞食」。
釈迦以来それこそが僧の道といわれていた中、鎌倉時代に死者に添い儀礼をいくらかの布施にて務めた僧が出たことから民衆に葬式が始まったのだといわれます。葬儀という悲しみの場に関わっていくことも僧が民衆との直接対話という新しい形を作ったという上で画期的なことだったかも知れません。それまでの日本の僧侶は「学者」でしたから。
その袋は何より質素を本とするもので、作りはカンタンながら、そもそもが修行僧・遊行僧の道中袋でしたので、肩掛け、いわゆるショルダーなのです。
たすきの様に首を通せば両手が使用できるという画期的なグッズ。私の城・墓巡りには欠かせません。
というかそのタイプは当たり前のように普及しているバックのスタイルです。
デザイン的に渋めのものが多い中、幼稚園ショップのものはブルーを基調とした少々サイケな柄でお気に入りではありました画像④。しかし何分小さくて、ペットボトルを入れるとパンパンに膨らんでしまいました。
1枚の厚手の綿を縫ってグルッと蓋にする作りが基本。
留め具はボタン1つ。逆さにしたり無造作に扱えば中身が外に散らかるというハメになることも。
そして先日、新しいバックを導入いたしました。軽くて機能性は良好です。
今度はジッパーが付いていますので中身のことを心配する必要はありませんし、ペットボトルは勿論、大き目のカメラまで入れることができる大きさです。
さて、遠州浜松に頭陀寺というお寺があり、かつては頭陀寺城がありました。お寺は今も健在です。
お寺の名+城のパターンはありがち(観音寺城・・・)ですが、頭陀寺というお寺の名も一度聞いたら忘れられないほど印象に残る名です。もっとも浜松の人からは地名としてずっと耳に馴染んでいる名称でしょう。
場所は以前浜松駅南の「領家」という地名について記しましたがそちらから北東、少々天竜川方向になります(場所はここ)。
地図を眺めて頂ければ一目瞭然、こちらは丘陵地になく完全に平地。いく筋も流れる天竜川支流に囲まれたこの地は近年ですらたくさんの河川氾濫による水害の話が残っていますので当時はかなりの湿地帯だったことがうかがえます。
当時の水稲栽培は水害とのリスク勝負であったことがよくわかりますね。手っ取り早く米を育てるに低湿地帯であれば水利で悩む必要はないのですから。
まぁ当時の技術で灌漑整備等の水の管理は出来なかったということですね。
よって水害のリスクは承知の上。
一か八かのところは多少あったのでしょうが大水を逃がしていく工夫さえすれば低湿地の米作の方がはるかに効率的だったのでしょう。
開発領主が寄進した荘園領主の称、「領家西」という地名から東に行くと海岸方向から浜松方向に向かう掛塚街道の交差点に当たります。そちらが「本郷」です。
その名は現地支配者の拠点とか物流の中心を意味する名称(本拠地)ですが、この頭陀寺城をその真中と捉えていたことも推測できます。
城はその頭陀寺の門前にあることからその名称を名のったのでしょうが、遠州では「松下氏の城」とするイメージが強いですね。
ということから前出の「領家」とは頭陀寺のことでこの寺が荘園領主という形が推測されます。といっても頭陀寺は高野山真言宗の古刹ですから、「本家」は高野山ということになりましょう。
「本郷」とはその寺に仕えた開発領主兼寄進者の松下氏の本拠地だったということが言えますね。
全国いたるところに「本郷」の名称は残っていて、中世風古来名称の断トツかも知れません。
ちなみにこの近辺で真っ先に思い出すのは掛川市の本郷です。今はゴルフ場に開墾されていますが、かつてはあの山腹に城があって、当地を治める国人領主(原氏)の本拠地であったことが思われます。ゴルフコース場に城の石碑が建っているといいますが、私はそのお遊びに縁がありませんので撮影は無理ですね。
その頭陀寺城の別名が「市場城」。まさにこの地区が物流の中心地だったという雰囲気が漂っています。
「下地」(土地の権利関係)については上記の如くですが、武士の知行地と支配構造の関係性でいえば松下氏は引間城主(浜松城の前身)の飯尾氏を「寄親」とした「寄子」にあたります。
尚、引間城(曳馬城)については複数ブログでも記していますので左側の「ブログ城址等静岡県」より探してください。
よって「遠州忩劇」の中で登場してくる重要な役回りですので、再来年の大河ドラマ「井伊直虎」にも劇中その名が出ることは私はかなりの確率で「ありうる」と踏んでいます。
寺は浜松艦砲射撃の前面に立って三重塔はじめ本堂等は壊滅しています。③の石塔類の残欠は空襲によって破損したそうです。①は頭陀寺薬師道の石標。
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