真宗での法名の扱いは亡くなってから通夜の「帰敬式」にて命名するのが今のところ大多数。
しかし当流では断然、生前にその名のりを受けることを「ベスト」としています(ウィキ)。
御本山でも以前からその機会を広報していますが、なかなかその意が伝わっていないようでもあります。
最近は「この字を使ってくれ」のリクエスト―所属住職の選定という暗黙―もアリですので気軽にどうぞ。
尚、末寺でも帰敬式(おかみそり)はできますが・・・やはり本山がイイ。
私の法名はそのイメージだけで「愚楔がいい!」と衝動的に問答無用で決定し、スグに石屋さんを呼んで刻んでしまいました。
ところが「愚」は親鸞さんのお名のりの「愚禿」以来、歴代法主、門主のみの「特別」な字であって、末寺坊主や檀家衆の使用は控えるべきものとの了解があります。
駆け出し坊主の私からすれば勲章のような字でもありました。
それを知ってのうえで、「いいよ、いいよのノリ」だけで「やっちゃった」というのがこの法名。
他から見れば絶対にバカ坊主と思われるところですが、私の場合「バカ」なんて言われればますます増長し嬉しくなるような褒め言葉。
そもそも「愚と楔」で「私のバカさ加減」を表現したかったのです。
木偏に契(ちぎり)で「楔」(くさび)、愚と併せて「愚楔―グケツ」です。
当初は「楔」に「セツ」という読みの採用の選択肢もありましたが「ケツ」のイメージの方が如何にも「ドンくさそう」で気に入っています。
私は以前チェーンソウ片手(「ち~ん僧!!」)で木の伐採の仕事をしていました。そしてこちらに来てから、境内だけでなく依頼されれば気軽に人様の家の剪定伐採を引き受けていました。
この「楔」の便利さを知ったのはその際ですね。サッカーでもその語を最近になって耳にするようになりましたが。
普通に生活していればこの道具を使用する機会はあまりなし。
そう、ドアストッパーは「あの形」でした。
たとえば直立する木と直角に刃を入れたことを考えてください。手鋸でもそうですが最初のうちはスンナリと刃が進んで行きますが1/2を過ぎたくらいからどちらであっても刃が進まなくなります。これは木の重さがズッシリと鋸にかかってくるためですね。
そこで「楔」を打って鋸の自在性を高めるのです。
チェーンソウグッズとして強化プラスチックの「楔」が販売されています。これを使用したことがありますが、あの手の現場だと紛失しやすいという難点があります。
そこでやはり「楔」は手身近なところに転がっている木端(こっぱ)―捨ててあるもの―に限ります。
よって「使い捨て」(expendable)となるのです。
その「使い捨て」という言葉も僧職というものに置き換えて考えれば「使っていただける歓び」(阿弥陀に)と「利他」を連想し、これまた宗旨的本意でもありますね。
「楔」は拾ってきた木端を使用しますので使い捨て、しかし使いようによってはこの上ない効果を発揮します。
この先達の考えた道具はコストパフォーマンス抜群です。
また古き木造建築物では地震等の力を逃がすその「楔」での結合方法は当たり前の方法でした。
「楔が効く」という状態にするために適当な力で「打つ」必要がありますが、力の加減により「効いていない」状況や打ち過ぎて鋸まで固定してしまったり、相手をぶち壊してしまったり思わぬ状況になる場合が有り得ます。
要は程度(コントロール 「ほどほど」)が必要なのですね。
角度を得られなかったり詰めの甘かったりする「効かない楔」のことを「バカ」といいます。よってほどほどの加減のできない「愚かな楔」は「バカ」の意なのでした。
私は自分の性質、始末特に「愚かしい事を重ね調子にのって人を傷つける」などの傾向があるため、「忘れるな!」のつもりでその名のりをしたものです。
他にも「気づきと反省」等阿呆な自分へのメッセージは多様でした。
しかし今は逆に少々「カッコ良すぎ」のように感じるようにも「ほどほど」になっていない感も。どうにでもなれの気持ちですが小僧の遊び、ままごと程度と放置いただければ。まずカタチからですね。
さて・・・実は「楔」には「幸福」が詰まっているのですよ。
標記、とても胡散臭いタイトルで失礼しました。
そもそも「幸福」などということは人それぞれの「主観」以外の何ものでもない感情ですから、これまでそんなものを「Scientific」に語ること自体「眉唾もの」と思っていた私です。
しかし11月20日付の京都大学の発表に「幸福の神経基盤を解明」というタイトルで英国科学誌「Scientific Reports」誌のネット版に掲載されたとありました。
ざっと眺めれば後頭部の「楔」(けつ)と名付けられた部位の容積を増やせば「幸福感」が得られるとのこと。
「幸福」という「主観」についての医科学からの実証です。
結論はポジティブ思考といいますね。
瞑想的であってもいつも前向きな幸福感をイメージし、現状に至福を感じ、不満足を感じないでいきることが大切のよう。物のあふれる世界、人の充足感を満たすことはなかなか難しいことですが、「足るを知る」心掛けと子供たちへのその思想を伝えていくことがますます大切であることがわかりました。
また子供たちには悲惨・悲観漂うニュース世風そしてゲーム等は忌避して遠ざけたいものです。それを情操教育と言いましたね。最近めっきり聞かなくなってしまいました。
幸福度アップはカンタン。
書物や人の指図にそれはありません。
日頃からポジティブ思考でいつも「自分は幸せ」と思ってニコニコとしていればいいのです。
少しばかりの挫折や「苦痛は無視」(映画の台詞)して少しでも多く生き長らえましょう。
縁者の死や病は辛いですが、死はそもそも人一人が「必ず」背負っていくものですので当人以外の者が引きずっていくのは無理だし不合理です。
とにかく与えられた自分の命を全うすべく「自分なりに気張る」。ただそれだけですね。
『人 世間の愛欲の中にありて 独り生じ 独り死し
独り去り 独り来たりて 行にあたり 苦楽の地に至り赴く
身 自らこれを得くるに 有(たれ)も代わるもの無し』
無量寿経 下巻
あとはすべてに感謝して生きることができれば最高の人生を得られたと振り返ることができるでしょう。
幸福を他人の言動で買い受けることはできませんし、金銭や物に向かうことは違います。
私たち自身が自分の心をその方向に向けていく努力がそれを実現できるのです。ふるって「楔」の容量を増やしていきましょう。
①黒系の石材はこの地区ではあまり使用されないようですが私が父に頼んで所望しました。
気に入らなくなったら埋め戻して彫りなおしてもらいます。
②③は本堂下部の柱と梁を押さえる楔。③のほぞ穴(矢印)が中古品(相良城)の証。豊富にケヤキ材を使用しているところもミソ。
コメントをお書きください