寺であって城であり町である 山科本願寺

畿内の門徒の敵対勢力について。

その宗教間の対立といえば①比叡山は天台宗徒・僧兵と②日蓮(法華)宗徒と京都町衆が主たるもの。

そして、対戦国大名となると織田信長の名は勿論筆頭ですが、上記②と組んだ細川晴元に晴元の義父、六角義賢の父となる六角定頼などでしょうか。

管領家に守護、信長と実力者ばかり。三河では若き日の家康をも脅かしていました。

 

敵に廻した有力者たちのお歴々の顔ぶれに当時の最高権力者がいて驚かされますが、真宗門徒が不利な立場に立たせられようが「権力」というものになびくことなく歯牙にもかけない態度は歴史の大局の中で果たして立ち回りとして正解だったのかという疑問は残りますが、まったくもってスカッと気持ちいいところがあります。

あの信長に十年以上にわたって石山本願寺に籠り抵抗しつづけた姿は私たち真宗門徒として胸を張ってもイイ歴史的事実です。

 

もしかすると信長の完全なる天下布武の成就を遅延させることによって「本能寺」の事件発生を惹起させたということもいえるかもしれません。

逆に言えば、信長が真宗と当初から協調路線を取っていれば歴史はもっと違う方向に動いたかも知れません。まぁそれは在り得ないほどの矛盾をはらんでいたことは確かでしょうが。

 

そのように真宗は一気に開花して、勢力を拡大していくわけですが何分周囲には敵が多く、寺と伽藍を建立したとしても防御性を考えた町づくりを考慮しなくてはなりませんでした。

それが九代実如さんから十代証如さんの時代に土塁と堀で囲んだ町(寺内町)へと発展し城塞化した理由です。

 

山科本願寺については何度か記していますが(  )本日は土塁として残存するものとしては各別のスケール、山科中央公園をご紹介(場所はここ)。丁度蓮如さんの御廟からみて山科川に注ぎ込む安祥寺川を隔てた西側にあたります(画像⑧)。

 

焼き払われた山科本願寺を学習し、より強固に城塞化したのが石山本願寺。信長の力攻めには屈しない寺内町を作り上げました。