最近よく耳にすることと言えば「子供の貧困」です。
「恵まれた国民、日本人」(昨日)とはいうものの実はこの「貧困」問題を放置することはテロリズムと切り離して考えることができず、見過ごすことはできません。
多様な状況がその歪んだ方向へと導いているのでしょう。
その「貧困」は一般的な恩恵を蒙っている「普通」の人々との「心の充足」の差が「憎悪と反発」を生むといっていいのかも知れません。
幼少期の貧困は成長とともに解消することなく、就職率も低く、たとえ就職ができたとしても正社員としてでなく非正規やパートタイマーとしての就労を余儀なくされてしまい、将来への展望というものが描けなくなってしまいます。
若くしてその状況に陥れられる事になれば、自暴自棄ともなるのは当然でしょう。
芽生えた反発心の灯に油を注ぐことも容易です。そこに宗教的扇動があれば行動の大義というものが背中を押すことになります。
「貧困」という言葉に違和感を抱いた方は私とおそらく同様に「恵まれている」(・・・・「Fortunate Son」 CCR / Willy And The Poorboys)という部類なのでしょう。
日本国内での「貧困」の実情にまさかと度肝を抜かされたというのが真のところですが、海外の貧困と富裕層との格差の問題はより深刻です。
どこの国でもその問題から逃れることはできませんね。
また、つい貧困問題は今の中東の如く各国内紛争や戦争が関わって、それが欧州への移民流入に繋がっていると思いがちになりますが、世界で最も厳しい「貧困」はアフリカといいます。
先般もニュースにありました。ニジェールからアルジェリアへ向かっていた(おそらく最終目的地は欧州でしょう?)女性と子供たちのグループ92名が砂漠の縦断に失敗して(車両故障)、発見に至らず行き倒れたと。その遺体の埋葬作業を行っているシーンでした。
ニジェールからサハラ砂漠を超えて難民、移民となる人は年間8万人と言いますから相当の量。理由は内戦もありますが、サハラ周辺を襲っている慢性的な食糧不足か原因とのこと。
一言で「飢餓」からの逃避です。
さすがに貧困も「飢餓」という二文字となると状況はより過酷でしょう。今の私たちが想像しえない状況です。
この文字は今でさえ、なかなか我が国ではお目にかかる事はありませんが、日本の歴史には頻繁に出てきます。
格好いい戦国大名の生き様ばかりがクローズアップされてそれを「美しく」記される歴史小説は多いのですが、庶民の生活観を詳述したものは少ないですね。
それは歴史の本質から離れてリアルなところを伝えていなことになるかも知れません。
戦国時代の飢餓はやはり戦乱と天変地異、そして~干ばつと洪水に米糠虫等の発生による「不熟の年」が原因です。
その「飢餓」について「お寺が生き延びるための法」というかそのポイントを記しているのが「本福寺跡書」です。
私は本福寺には「堅田源兵衛の首」の光徳寺と対で何度か訪れています。
一昨年は拙寺バスツアーでも皆さんをお連れしましたが、その時は門前だけでした。
「本福寺跡書」は戦国期(1500年代)、本福寺の明誓という住持が記した書面ですが、非常に興味深いものが多々あります。
藤本久志氏の「土一揆と城の戦国を行く」に触れられていますがそのポイントは・・・「檀家さん」(寺にとって大事な人)ということになります。
標記の「御頭(おとう)」とは寺の世話人のこと。
「有徳人(うとくにん)」とは御頭の中からあった特に有力な富裕層のことで元は武士層出身ではなく、その財力から兵力を持ち自治的組織を構成するなどの中世に出た新階級の事ですね。
彼らは新しい形態の「商人」としてのみ留まる事なく、政治中枢への有徳な人となって関わったり寺社としてはその財力を布施・喜捨行為の恩恵としてアテにしたわけです。
勿論その有徳人の成長は貨幣経済の進展がありましたし農村から離脱した商品流通組織の新組成があったのでした。
当時の寺としてその維持と生き残りに心を配るべきものは今と同じ「檀家さん」(御頭と有徳人)のことだったのです。
どういう職業の檀家さんを持つと、いざと言う時に寺の支えとなるかといえば、その記述は・・・藤本久志氏によります。
①田を耕作する農民ほど飢餓の年に影響を重く受ける
②鍛冶屋は飢饉の年に苦しむ農家が手放した鎌・鉈・古鉄を買い
うけて有徳人がそれを買う。
それらの道具は必需品のため買い受ける人が必ずいるから。
③桶師は経年、桶が傷むので飢餓の年も流行るもの。
④研師は飢餓の年ともなれば易々とよき刃物が手に入るのでそ
れを仕立てなおせば有徳人が買う。
⑤番匠(ばんじょう―大工)も飢餓の時、有徳人が造作をしたり誂
えるため流行る。
⑥塩・瓜・米・豆・麦・果物・餅・粽・団子・焼餅など色々食物を売る者
は勿論飢えを知らない。
⑦逆に高級品を扱う紺屋・具足屋・糸屋・白銀師(銀細工)はありき
たりのやりかたでは苦しい職業である。
当時の坊さんの目で見た職業感です。
尚、有徳人は社会情勢の苦しい時に投資をするという姿が垣間見えますし、また⑤で記したように世情が飢餓であるからこその大工仕事の発注は人件費も安くなるということもありますが、社会への救済行為でもあったわけです。
よってそういう意味からしてただの「長者」としての意でなく「有徳」という呼び名になったのでしょう。
画像①は石山寺縁起から馬借の姿。「庭訓往来」で記されていた「大津坂本馬借」でしょうか。勿論彼らのうち本福寺の有徳人となった人はいたはずです。②は番匠③車借(牛+車)も。
馬借・車借は日本物流の元。農家から専門職の転化です。
水陸の商品交易の賑やかな場から発展していきました。
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