坊さん主役のドラマがあったり(絶対見ない)坊さんばかり出演してお寺のちょっとした内輪話やら歴史やらを案内する番組(最近ほとんど見ない)が放映されるなど、その仕事が「案外知的で結構まとも」と世間一般の評価があがりつつあるのかと思うくらいになったようですが、私から見れば衆人から「本当の信頼と信心を得るには程遠い」のではないかと思っています。
でなければ、「仏教離れ」によって「寺が将来潰れる」などという危惧はないわけで、これぞ今いよいよ私どもが脇を締めて、それを惹起した因果の法則を見きわめなくてはなりませんね。
自らが悪い種を撒いてきた結果なのですから。
本日はお寺のみっともない話をいたしましょう。
ズバリそれは「檀家さんの過少申告と取り合い」でしょうか。
当流もいよいよお寺に定期的に参拝される「檀家さんの数」をベースとした「冥加金」―歴史用語で一般的には使用されなくなりましたが当流では本山へ上納する金銭、今でいう看板代のこと―の割り当てが厳格にされるようになるのですが、ハッキリ言ってこれは自己申告。
標記「檀那」とは奥さんがご主人のことをそう呼んだり、ご主人様のことを呼ぶことに聞き慣れていますがこの言葉ももともとサンスクリット。寺などに「dāna 布施をする人」の意です。
自己申告というものはそもそも性善説。
みんなしっかり正確な数値を申告していればフェアな「本山護持」となってすべてが安泰となるはずなのですが、今だ昔ながらの「過少申告」が罷り通っているようです。そう決めつければ「おまえの寺だけだ」と怒られそうですが・・・
本山も末寺檀家数減少は早くから察知してその厳格な申告は「妙案」だったはずで「檀家数」は冥加金徴収のベースとしてはこのうえない数値であってそれ以外の冥加金確定原因を探す事はもはや無理でしょう。
「檀家数」といっても本当はこの数値はお寺でも把握しにくいものがあります。
施主死亡により無縁化した墓地は毎年のように増えて、かつご年配となってお寺へ参る方も減少している状況の中、今後の継続性も現状すらも先方様の気持ち次第の中、正確な数字など出せるものではありません。
そこのところは本山も配慮していて、100%確定的に檀家さんといえる家は実数で、遠方でお墓だけあって時折参拝がある程度、滅多に参拝がない、まったく参拝が無い等々、小数点以下の係数を確率の多少によって掛けるなどというやり方で合算しています。
ということで元のベースとなる数値というものは全部坊さんのイメージ。罰則が無いですから殆どデタラメというのが現状の様ですね。
そしてこの教区の「組」では「厳格にやろう」ということから
私が来てから申告し直した数値は父親のカウントよりも22%アップの数字となりました。
いかにもこれまでずっと過少申告していたということですね。
結構気張って記したものでしたが。
少なく申告すれば上納は少なく済むという原理ですからどこの寺でもそれが常識の如く罷り通っていた悪習のよう。
ところがその後からまた揉めているのですね。
その調査に応じて私たちの「組」が一律拙寺と同じような檀家数のアップを提示したにも関わらずまったく以前から「マトモだったので修正なし」といわんばかり。変更が無かったり減少していたりで不可解な数値がアップされてきたのでした。
だいたいの檀家数というものはドンブリ勘定ではあるもののある程度の規模と数については見る人が見れば把握できるそうですが、結構差異が発生するというのがこの世界のよう。
みんな「結構腹黒い」ということでしょうか。
公平な第三者による評価を求めるというシステムが確立しない限り永遠にわだかまりは残りそうです。
これは真宗寺院だけでなく他宗も似たり寄ったりといいますが、それは聞いた話。「うちはみんな公平」という宗旨もあるでしょう。端折り過ぎて記してしまったらごめんなさい。
独立した宗教法人の設立をすれば手っ取り早くその支出はなくなるのでしょうが、私の様な胡散臭い風体の乞食坊主(大好きな言葉です!!)が「真宗大谷派東本願寺末」の冠が無くなってしまえば沖縄にてからかわれて呼ばれていた「今異教の教祖」風となって、いよいよ誰も寄り付かなくなるでしょう。
その前に「御先祖様に申し訳ない」こととなります。
そして「檀家を取った盗られた」の話。
昔からありますね。
「ご主人が亡くなられて奥さんのお寺や宗旨に統一する」という件は私が来てからも片手ではカウントできないほどありますが、私の場合はいつもその申告には「ご自由に」です。
留めようと思って留められる問題ではありませんね。
こちらに相談を持ちかけてくる段階でそのことに結論が出ているのは当然のことですので、私は「残念で心残りですが・・・」という言葉を返す以外ありません。
世間では「大枚吹っ掛ける」という話も聞きますが、その辺りも制限をかけていません。
それだけこのお寺に魅力が無かったということですね。最近は寺というよりも住職の人柄に左右されるとも聞きますので、ますます自分の責任を感じるばかりです。
かといって新しく入山くださる家もいらっしゃいます。
今のところ出て行かれる家よりも多いので何とか安心しています。
「出るのも簡単なら入るのも簡単」ということは寺の対応としては当然の事でしょう。すべて施主が決めることであって寺は受け身のはず。
ところが新規入山についてはちょっと気を使うものなのです。それも一方的に私の方で。
何故なら半世紀前、某寺院の総代まで務めた方が亡くなった際、拙寺13代祖父が葬儀導師を行ったことから、かなりのトラブルにつながったことがあったのでした。
その話は半世紀に渡って拙寺の語り草になっていますが、気の小さい祖父はさぞかし恐ろしい思いをしたことでしょう。相手寺院の世話人引き連れての談判と、この小さい町にビラを撒いての荒業には驚きました。
そういうこともあって、スタンスとしては、「一同自由」「平等施一切」ではあるものの「入山チェック」はあとあとの「覚悟」という意味のみですが一応はお聞きしています。
だいたいこのようにブログで記しているくらいですから、私の場合は怒鳴られようが、叱責されようが、中傷されようが、「蛙のつらに小便」。
それはすべて「施主の意向」、憲法20条信教の自由!!が論拠です。
坊さんは縄張り意識が強いのかも知れませんので、「盗られた」の被害妄想は各別のよう。
そのビラの中に拙寺住職の「悪行」を、
「檀家の摘まみ喰い」という表現で記されていました。
檀家さんは「食いもののタネ」だったのでした。
江戸時代の檀家制度をそのまま踏襲しようとしている方がままおられますね。
坊さんはあらためて取捨選択の権利は先様にあるということを肝に命じるべきです。
さて、画像は拙寺檀家さんではありませんが、北の極寒の国、北海道の御門徒さんからのおいしい物の差し入れ。
ネコどもが「なんだ なんだ なんだ」と現われて、どうしていいかわからないの図です。
見るものすべてが初めての品ばかりで「所変われば感」良く出ています。ラーメン系は息子に取られる前に食べてしまおうかとも思いましたが、一つくらいは残しておきましょう。
そういえば先日も檀家さんの孫の息子の一つ先輩が旭川に居るという話もありました。結構北海道に子息を向かわせている檀家さんはあります。
コメントをお書きください