草ボウボウの中にその味わったであろう時間の経過を思わせる、傾き崩れかかって欠けうげながらの石塔石仏の佇む場と雰囲気を味わうことが「面白さ」と主眼をそこに置いて色々な場所に出没していますが、時には超有名寺院へも行ってしまいます。
京都に当家の小僧が行くことになってから何かの「ついで」ということや時間潰しという機会もありまして。
入学1年前には最近どこの学校でも行っているオープンキャンパスというものがありました。それ以来何かの手続きやら入試、そして入寮に小間使いの物品搬送やらの仕事が私が京都へ行かなければならない理由です。
大寺院というものは一言で各本山系寺院が多く、修行道場・寺務を兼ねた観光寺院といえるかも知れません。門を開きつつ制限もかなりあるということです。
「墓地境内禁忌かそれとも自由か」でも記しましたが、この手の大寺院ではなかなかどこまでその「観光と参拝」の線引きが出来るかは悩ましいところでしょうね。
私の趣味的な感覚にてそれらのお寺さんたちの考え方をとやかく言える立場にはありませんが、大寺院につき物の「塔頭寺院」
「子院・末寺の類」の門前に掲げられた「拝観謝絶」の文言と柵には何やら突き放されたような気がしてあまり気分のイイものではありません。
物理的に客の対応ができないというのが殆どの理由だと思いますが「非観光寺」宣言をされるならその旨記すか、入場管理料を課したとしても期限を決めて公開されるべきと考えますし、もしその機会が設定されているのなら予め提示しておく親切さも欲しいところです。
何しろ「拝観謝絶」の一言では憎らしすぎますし、短気な人ならカチンと来る人も。そもそも以前記しました通り、ここの主宰者(僧)に「仏の教え」を問おうという方をも謝絶することになってしまいます。
参拝あるいは拝観に参った人たちへの「拒否」の投げかけなのですから、いずれにせよ人情味のある文章風にした方がイイですね。
カッコいい4文字より、こういう理由があって拝観に至れないのだという「切実な現状」を過大でもちょびっと示す方がお寺らしいと思います。禅的ではありませんが。
「謝絶」の語には「申し訳ありませんが・・・」の「謝意」が入っていますが遠方から参った人の眼からは「拒絶」以外感じるものはありません。
そもそもその語は病院等、危篤状態の患者へ面会ができない場合などにお目にかかるくらいのものですし。
さて、小僧所用の時間待ちの周辺有名寺院、大寺院、数々ありますが、最寄で行きやすさ、気軽さ、駐車場の空き具合でいえば臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺です(場所はここ)。
臨済ですから創建はわが真宗の発祥と同時期です。しかしながら室町期より武将に愛された寺ということ、中興の祖があの一休さんということ、国宝クラスの建造物美術品が多数・・・何かと戦国期の有名人との関わりが深くて華やかな寺でもあります。
特に秀吉がこの寺のバックアップをしたのは信長の葬儀をこちらで取り仕切ったことから(当時個別に大徳寺という名称は無し)。そして以後いよいよ寺の知名度がアップし利休の不仲を決定的にしたあの朱色の「金毛閣」などもこのお寺の集合体の顔となっています。
秀吉の一義は亡き主君の葬儀を丁重に仕上げることです。
そしてそれが完了したあとはその恩義を「忘れたことが無い」という「美談」を世間に流布することでした。それが信長後継者としての必須のアピールなのです。
そこのところは大いに利用したことでしょう。
先日記した大徳寺総見院はその七日間の葬儀「大葬礼」が行われた寺院で、秀吉が一周忌に間に合わせて建てた寺です。
喪主は名目上信長の四男の秀勝(自分の養子にして羽柴秀勝―18歳で病没)でしたが、位牌と太刀を秀吉が持ったということは実質の喪主と後継のアピールは見え見えです。
つくづく思います。1週間、毎日同じ葬式が続くなど同座して付き合う人は疲れるでしょうね。
派手にそして長ければイイという考えも視点が違っていて浅ましさをも感じてしまいます。まさかウソ泣きなんてしていないですよね。
信長の戒名・・・「総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀」の長さも・・・
他の武人たちも同じようなものですが。
総見院の信長一門の墓は指定拝観日か墓参以外(他家の墓もあるため)は無理だと思います。無責任な事を記しますが「物見ではなく純然たる参拝」ならイイのかも・・・。
瑞峯院は大友宗麟の菩提寺ですが庭園等(閑眠庭)の拝観ができましたがお墓には辿りつけませんでした。
他の塔頭寺院は殆どが「例の看板」が立っていて敷居が高いどころではありません。
三玄院 石田三成の墓
興臨院 畠山義総(よしふさ)建立 畠山家歴代の墓等
真珠庵 一休が開祖 村田珠光の墓
聚光院 三好長慶(聚光院)の寺
芳春院 前田利家婦人(芳春院)の寺 前田家菩提寺・・・
まだまだあってキリがありません。
最後の画像2枚が摂家近衛家廟所。墓地を隔てる門と穴から覗き見した図。
古そうな宝篋印塔が並んでいる様子。
直立した隅飾に塔身と基礎の間の彫飾り、基礎の下の返花座の彫りが浮きだっています。
中に入ってお参りできるのなら草むしりのボランティアでもしたいくらいです。
付け加えますがこちらの塔頭寺院たちも明治維新とやらの廃仏毀釈の暴力の波でメタメタにやられています。
それまで125の塔頭寺院があったといいますが悉くぶち壊されて今残るは24寺。各諸大名のバックがあったということが怒りに拍車をかけたようです。
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