戦国時代で名を馳せたお馴染みの御三名、一つの理由のみを挙げてその評価をする暴挙をお許しいただければ、私はブログで記しましたが(木下藤吉郎と松平元康)だいたいは標記の一言でしょうか。
家康は三河の小大名出身ではあるものの先達から引き継いだもの(組織の盤石性)の大きさは絶大でした。
人たらしの秀吉がその組織内の結束を羨んで度々家康家臣団に引き抜きの手を掛けてきたのは有名な話。
そういう意味では秀吉がその組織性のスバ貫けた結束力に気付かず、たまたま単騎勇壮でキレ者と見込んだ武将に声掛けしたことは的を射ていませんでした。
さすがに今川人質時代から近侍として付き添ったブレーンでもあった石川数正が引き抜かれて自分の許を去ったことはかなりダメージがあったでしょうが、それらの引き抜き工作を拒絶することによって却ってその家臣団の結束が強まったのではないでしょうか。まともな家臣に恵まれていないということを外に知らせているようでもありますし。
死した成瀬正義の跡目を継いだ正一の子の正成などは秀吉に「五万石で召し抱える」と打診されそれを蹴ったといいますね。カッコ良すぎです。
今で言えばカネと地位で買収するというやり方ですが、その手のものには目もくれずに主家に仕えるということを貫く精神は他の者たちの励みにもなり、結束はいよいよ固まっていったことでしょう。
尚、石川数正の出奔は現在でも謎とされていて、本当の理由はよくわかっていないよう。
ボスに恵まれるということは必須ですね。たとえば会社の中で実力があったとしても上司の考え方によってその実力が生かされないことはザラ。どんなボスにでも引き抜かれるような人物であれば申し分ありませんが、たとえポストを与えられたとしてもボスがコケてしまったら同じに滅亡するしかありません。
藤吉郎は信長の子飼いとして頭角を表してチャンスをゲットしていったのでした。また別の観点からすれば「本能寺」でしょうか。信長が死して初めてその栄華と繋がったのですから。
では織田信長はというと、勿論父信秀までの家中結束は言うまでもないことですが、一言で頭角を表した理由をあげれば「兵農分離」という語を記さないわけにはいかないでしょう。
信長は先鋭的な特殊部隊(親衛隊)を構築するなどしたことは有名な話(赤母衣・黒母衣隊)ですが、ポイントはそれらを成立するにあたり、兵としての専門性を求めたということですね。
それまでの戦国というものは配下の家臣団の兵たちは通常時は農民でした。「すわ戦争」という時のみ具足装着のうえ一曳の馬と槍刀を供えて駆け付けたというものです。
配下家中の惣領ではない分家筋、次男三男以下、同盟国の人質、子飼いの衆を競わせてその集団をまとめたといいますがその手の色分け(赤・黒)による統制は他家でも見られます(北条家の五色・赤備え等)。戦意高揚につながるエリート集団となったことは間違いないところ。
小和田哲男先生の著書「戦国の戦い」から書き記せば
「信長の親衛隊は赤母衣衆と黒母衣衆に分かれるが赤母衣衆の筆頭前田利家の例がわかりやすい。
前田利家の家は尾張国荒子郷(名古屋市中川区)に所領と屋敷を持つ地侍だった。利家は前田利昌の四男だった。家督をを長男利久がつぎ、兵農未分離のまま荒子郷に住み、合戦の時だけ、定められた兵を連れて出陣していく形だった。」
十四歳のとき荒子を出て信長の親衛隊に組み込まれたのが加賀百万石の始まりです。超短気の勇猛武者「槍の又左」として頭角を表していきました。
この直属部隊の経営は当然に資金力が必須ですが、このような「専門職」を育てた斬新性が「桶狭間」以降の織田家が尾張にとどまらず天下布武への道のりを辿ったのでしょう。
それまでの「すわ戦い」というものは、ぶっちゃけ「領内の農民集団」対「敵方の領内の農民集団」の戦闘になります。よって戦闘とは季節限定でもあったワケです。
戦争というものは稲の収穫が終わってからというのが暗黙の了解でした。
信長の新組織は野良仕事ではない日々の武芸鍛練もありますが 「いでもどこでも」のウリはまったく革新的だったのでした。
前述の書にもありましたが長男が土豪としての家を継ぎ(半百姓)次男三男以下の男どもが親衛隊として信長直属の配下(武士)となるので「兵農分離の第一段階」(「兄の道 弟の道」―藤木久志)と指摘しています。
画像は大徳寺総見院の織田家の墓。
①左から秀雄(信雄嫡男)・信雄(信長二男)・信長
②信忠(信長嫡男)・秀勝(四男)・信髙(七男)・信好(十男)
③はビルの谷間の繁華街、河原町通から本能寺入口。
④は本能寺の信長(ブログ2度目)。
⑤は寺町通側。
どちらの墓も供養塔の類ですね。
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