松平三代信光  四代目継承に何かあった?  岩津城

三河の弱小国人領主から始まった松平家九代目当主の松平元康が徳川に改名し家康を名のり、そののちに大きな名跡を残したこと、そのブレーク度ときたらやはり、信長・秀吉と比べても遜色はないですね。

またそれは岡崎大樹寺に居並ぶ松平家墓石と蔵物の歴代将軍の位牌を見ればそのだいたいの流れがわかるというものです。

大樹寺が松平家の菩提寺であるが故ですが、こちらは文明七年(1475)に当家四代目の親忠が建てたお寺でした。

 

親忠以前の松平家の歴史は詳細記述が無いそうで、初代親氏-2代泰親-3代信光-4代親忠・・・の流れは間違いないところですが、伝承推定も多く研究の方も行き詰まっている面もあるようです。

4代親忠から家康までの系統は今は本流ではありますが、3代信光には惣領として別に長子がいたようで、そうなると4代親忠は分家筋と考えるのが本当のところ。

そこには歴史の表に出て来ない、あるいは故意に消された事実があったことが推測できますね。

 

家康の家系図イジリの件は耳にしていますが、まぁこの手のことはどこの家にでもあることですから取るに足らない慣例といえばそうなのかもしれません。

家康が松平家出自を当初は源氏(または加茂)だったものを藤原に変更、その後幕府を開くために「やっぱ源氏でした」といわんばかりにちゃっかり再変更した話は有名ですね。

 

話は飛びますが案外、「テキトーな改変と付け加え」は家系図というものにはつき物でした。

よって何度か記していますが世に残る家系図などというものは「話半分」くらいに思っているのが丁度イイのかも知れません。まず都合よく立派な血筋を強調しているものです。

特に大元は大抵○○天皇ですね。「源平藤橘」はそもそも「それ」を語る根拠ですから。

 

今も家系図作りを請け負っている方もいます。坊さんとして思いますが、論拠を過去帳を覗いて求めようとしても、明治以前は名前のみの記述が多くてどちらのどなたさんかもわからないのが殆どです。依頼者の気分を害さぬよう手心(フィクション)を加えるなどという話は商売としては当然ですが、それも「またぞろ」だと思います。

 

そもそもその「立派な血筋」の疑わしいことは、信長は守護代の分家筋ではあったものの秀吉も家康も出自的にはまったくハッキリしませんね。

要は幸運に恵まれた人がたまたま出た家というところでしょうか。

 

4代親忠が菩提寺(大樹寺)を新たに建立したというところもその推測に力を貸すところですが、ではそれまでの松平家の菩提寺は・・・といえば宝徳三年(1451)に3代信光の建てた「信光明寺」です(場所はここ)。

その24年後に大樹寺が建てられています。

何かが無ければ菩提寺を新たに設けることはまず不要ですからここに疑問を感じます。

 

このお寺は信光自身の名をそのままつけていますので分り易いですね。自分の名に「明」をつけて3文字の寺名です。

2代泰親が攻略奪取した岩津城の麓に建てられています。

泰親はこの城を根城に次の岡崎城を攻略して城を3代信光に。

信光は安祥城を奪取する足掛かりとしています。

この城こそが松平家(徳川)発展のベースとなったともいうことができますね。

 

面白いと思いつつ、こちらにも疑問に思ったのが「伊勢盛時がここまで来て、城と寺を焼き払った」という看板の記述。

明応五年(1496)に志戸呂を攻めていますがその勢いで三河まで侵攻しているというのでしょうか。

それとも筆が走り過ぎたのでしょうか、「武田信玄軍中にいる北条早雲が兵卒を率いて三河襲来した」お話というものは聞いたことがありません。

お話としても「今川氏親の命」とでもあれば信じなくもないのでしょうが・・・。

その後の元亀年間の武田勢侵攻の戦禍に関しては充分ありえますが。

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コメント: 2
  • #1

    高橋建次 (火曜日, 13 11月 2018)

    松平信光には10男松平源十郎信義がいました。しかし、信光が殺された後信義は親忠、長親。光重、親則、長家、広親を殺しますが、信義の母親の機転で実家の和歌山かつらぎ町に逃げ徳島の鳴門へと8男、9男と逃げます。隠棲3年母親の死後高知の元山町の高橋兵庫守を頼り、新居郡大生院にきます。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 13 11月 2018 18:09)

    ありがとうございます。分流詳細についてお詳しいですね。
    信光は長命、不詳とはいえ信じられないような子供の数がありますね。
    どれだけ側室がいたのかも・・・
    男子多すぎは主張と家臣団の分散というリスクをともないます。